忙しくなる前に
チクチクチク……というほどのスピードではないけれど、黙々と針を進めていたら、カチャリとカップの置く音がした。
「少し休憩しませんか?今日は朝からずっと、刺繍じゃないですか」
心配そうなメアリーの声に、私はふと我に返って顔を上げた。
「あー、うん。うわぁ、首がいたぁい……」
首だけじゃなく肩も。
あと、ときどき刺すから、指も痛い。
「すごく集中して、刺繍をしていましたねぇ」
「ていうか、お嬢が真剣に刺繍してる姿、ちょっと怖かった……」
横からの台詞に、私はジロリとテッドを睨む。
「失礼ね。私だってたまには真剣に出来るんだよ!」
「たまに?」
「……う。いつもはムリ」
ぶふっとリックが吹き出す。
もう、兄弟揃って、失礼すぎ!
……今、テッドは四阿の外で護衛として立っている。リックの方は、私の向かいで勉強中だ。
長期旅行で遅れた分を取り戻すべく、この頃はずっと勉強漬けなのだ。
私は大きく伸びをして、メアリーが持ってきてくれたお茶と、お菓子をいただくことにした。
今日は午前中も午後も、ずっと刺繍をしている。おかげでかなり進んだけれど、さすがに疲れた。
―――春華祭が終わり、アナベル姉さまやライアン兄さまたちは王都の学院へ戻っていた。
だからというワケではないけれど、カールトン領はこの頃、静かな毎日だ。
「明日は、王都へ行かれるんですよね?」
「うん。王都のカールトン商会カフェで、新メニューの話をする予定」
タピオカドリンクならぬ、ウビドリンクをカフェメニューに加える。その対応のためだ。
そのあとは、セオドア兄さまの16の誕生日パーティーの準備も控えている。
しばらく忙しくなるから、このところ、必死で刺繍をしているのだった。
ちなみに明日は、ディもカフェへ来てくれるらしい。久しぶりに会えるので、ものすごく楽しみ!
さらに翌日は地龍公爵家へ訪問して、奥さまのユージェニーさまにも会うしね。
「そういえば、シェフのジョンがお嬢さまと話をしたいと言っていましたよ。あとで、お時間を作ってください」
「ジョンが?うん、分かった」
明日はジョンも一緒に行くんだけど……何かあったのかな?
一度休憩すると、もう刺繍する気力がなくなったので、ジョンと会うことにした。
刺繍は、今日みたいな日があと2日もあれば、大丈夫そう。……真面目にやれば、こんなにも早く進むものなのねぇ。少しスピードも上がったからかしらん。
―――調理室に入ると、ニコニコしたジョンが待っていた。
「お嬢さまが持ち帰ってきたドライフルーツで、ケーキを焼きましたよ」
「ほんと?!」
もう!
さっき、お菓子を食べたところなのに。でも、新しいメニューは別腹よね。
……ジョンには、南国産のドライフルーツをいろいろと買って帰ってきたので、これでパウンドケーキを焼いて欲しいと頼んでいた。
でもジョンも、春華祭やウビドリンクの手順の整理などでバタバタしていたから、時間に余裕が出来たのが今日だったらしい。
ちなみに……ブライト王国でドライフルーツといえば、干しブドウくらい。いくつか種類はあるけれど、ブドウだけじゃちょっと物足りない。やっぱり、いろんな種類のドライフルーツが入ってるパウンドケーキが私は理想。ということで、お願いしたのだけれど。
調理台の上には、焼き上がったケーキが幾つか並んでいた。
「たくさん焼いたね」
「こちらの二つは、お嬢さまが前に仰ってた大人向けの分です」
大人向け?
……ああ!お酒を使った分かな?
前世のパウンドケーキで、ドライフルーツをラム酒に浸したり、ケーキに塗ったりしたものがあった。
私は好きじゃなかったけど、大人向けにはいいのかも?と思って、提案していたんだった。
さっそく、お酒を使ってない方を試食する。
……廊下には興味津々な侍女たちがいっぱいいたので、彼女たちも一緒に。
「やっぱりお嬢さまが帰ってくると、活気づきますね!」
「旅行で、どんな新しいものをお持ち帰りになるか、みんなで楽しみにしていたんです!」
そ、そうなの?
みんなの味の批評を聞いて回りながら、目を丸くする。
期待されちゃうと……困るなぁ。
実はあれこれ持ち帰ったスパイスの方は、まだ、使い道が決まっていないのだ。私としては猛烈にカレーが食べたいんだけど、どのスパイスを合わせればカレーになるか、さっぱり分からなくて。カレー粉っていうスパイスは無い……んだよね?数種類のスパイスを合わせなきゃ、作れないんだよね?
どういうスパイスを使ってたかまったく知らないし、前世と今世はちょっと植物も違うから、ほんと、難しい。しかも、カレーの味を知っているのは私だけときた。
はあ、今はレトルトでいいから、カレーが食べたいよーう!
前世って、なんて便利だったの。
あ~あ、前世で料理女子をやっておけば良かったなぁ。ろくに料理をしなかったツケ(?)がこんな形で返ってくるなんてさ……。




