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「こちらになります」
金属製のケースには、札束がぎっしりと詰められている。俺がそれを見て頷くと、銀行員はパタンとそれを閉じた。
「駐車場まで、お見送りしましょうか」
「いえ、それには及びません」
長椅子で手持ち無沙汰に待っているノアが『随分待ったわよ』と不機嫌そうに言った。ラヴァリも『遅いわ』と口を尖らせる。
『すまない。何分大金なものでね』
『そこまでの大金なの?あたし、ここの国の通貨の価値がどんなものか、よく分からないんだけど』
『普通の人間なら、これだけで3年ぐらいは食えるぐらいだな』
ノアとラヴァリが目を丸くした。
『そんな大金なの!?というか、トモってやたらお金持ってるわよね……』
俺はケースの取っ手を摑み、駐車場に向けて歩き出した。さすがにこの量だと、かなりズシンと重い。
『まあ、運が良かっただけさ』
『前から疑問に思ってたけど、トモって働いてないわよね。昔、この国の役人だったという話は聞いてたけど。どうやってお金稼いでるの』
『株式投資、と言っても分からないか』
フルフル、とノアが首を振る。ラヴァリも同様だ。
『全然分からないわ』
『俺もや』
シムルの文明レベルは、聞き及んだところによれば中世ヨーロッパのそれにかなり近い。ギルドのようなものは存在しているらしいが、資本主義的な発想は恐らくはまだない。いわんや株式会社の存在など、想像もできないだろう。
「話し出すと長くなるが、要は商人が事業のためのお金を調達する手段さ。株というものを発行して誰かに買わせて、そのお金で事業を展開したりする。
そして商人がもうかればそれを持っている人間に金を払う。あるいは、商人がもうかることを期待して、株券自体の価値も上がる」
『……??分かるような、分からないような』
「まあ俺はその株の売買で大もうけしたわけだ。だから、基本的には一生働かなくてすむ」
『だからポンと大金をタマダって奴に渡すわけ?トモも大概、箍が外れてるわ』
「……そうかもしれないな」
ケースを後部トランクにしまい、俺はアクアのイグニッションボタンを押した。ノアはなお思案顔だ。
「金を渡すことが嫌なのか」
『そうじゃないわ。ただ、なんでトモがそこまでするんだろうって、ちょっと疑問に思っただけ』
……確かに、少し前の俺ならそんなことはしなかったはずだ。何のために、交渉のためとはいえ玉田にそんな大金を支払ったのだろう。
メリア・スプリンガルドに会わなければならないからか。確かに、彼女に会う必要性は極めて高い。だが、我ながらかなり思い切ったことをやったなという自覚もある。ここまで出さなくても、玉田は要求を呑んだのではないか?
後部座席のラヴァリがニヤッと笑ったのがミラー越しに分かった。
『まー、見当は簡単に付くけどな』
『は?』
『おっと怖い怖い』
ノアに睨まれ、ラヴァリは肩を竦めた。奴の言わんとしていることは分かる。俺がノアに惚れているからだ、ということなんだろう。
確かに、彼女のことは嫌いではない。ノアが俺に対して異性としての好意を抱いているのも、さすがに理解している。何かのきっかけがあれば、そういう関係になるのかもしれないとぼんやりと思っていたりもする。
ただ、多分それは全てじゃない。
昔の俺は、自分さえよければ良かった。自分の生活の心の平穏が全てだった。実際に、半分は運とは言えそれを安定的に得られるだけの資産も得られた。
ただ、今にして思うと。俺は倦んでいたのだろう。無味乾燥な平穏という日常に。
結局、俺はずっと「誰かのために、何かをしたかった」のだ。
きっと、ノアのことは、あるいはイルシアのことはただのきっかけにしかすぎない。俺は、動かなければいけない理由を心のどこかで探していたのだ。
だから、命の危険にさらされても、未だに彼らを見捨てないでいる。そのためには、2000万円など端金なのだ。
「ふふっ」
『トモ、何がおかしいのよ』
「いや、やっと自分自身、納得が行ったってだけさ。ラヴァリの言おうとしていたことは、半分は合ってる」
『えっ……』
ノアの顔が赤くなった。
「ノアのためでもあり、イルシアのためでもあり……何より俺自身のためだってことだ」
『……それ、どういう意味なの』
俺は後部座席で『何話とんのや』と訝しがっているラヴァリの方に目配せした。ラヴァリに聞かれないよう、俺は敢えて日本語で話している。さすがに小っ恥ずかしいからだ。
「落ち着いたら、ゆっくり話そう。最近、ちゃんと話す機会もなかったしな」
『……分かった』
ノアが恥ずかしそうにうつむいた。俺はもう一度小さく笑うと、ブンブンと首を振り気合いを入れ直す。
浮かれている場合じゃない。やるべきことは、まだやまほどある。
*
まずは今日だ。メリア・スプリンガルドと話が付けられるか否かでは、全く話が変わってくる。
シムルからの刺客について、何らかの権限を彼女が握っている可能性は高い。もし彼女を説得できれば、少なくとも外敵の脅威はなくなる。
昨日の晩にシェイダが言っていた推測……帝国の目的が「死病の撲滅」にあるのであれば、あるいは交渉の余地はあるかもしれない。この世界の医療技術なり何なりで、対応できる可能性があるからだ。
もちろん、すぐに決着できるという甘い考えは持っていない。かなり深刻な病気のようだから、まずは彼女の体調を立て直すことの方が優先だろう。
ただ、逆に言えばそれを恩としてこちらから要求できることもあるはずだ。そこは、ラヴァリ次第ということだろう。
むしろ目先で切迫しているのは、阪上の問題だ。
阪上は、想像以上に危険な男だ。人の弱みを握り、自分の意のままに動かそうとする。そのためなら、一切の手段を選ばない。
そして、高崎の推定によれば……15年前にH市で起きた未解決事件、「鈴木一家失踪事件」の主犯は、阪上だ。
高崎もその点は、詳しく知らないらしい。というより、言いたがっていなかった。
ただ、その片棒を担いだのが高崎であり、その点に対し良心の呵責が未だにあること。
そして、鈴木一家は失踪したのではなく殺されており、その死体遺棄場所は阪上しか知らないことは間違いないようだった。
俺は一つ、溜め息をついた。そんな凶悪犯が、しれっと市長をやっているという現実には吐き気がする。
今日の所は、高崎と篠塚社長を会わせ、「イルシアチャンネル」の第2回の打ち合わせをしてもらっている。
阪上は高崎が自分の思う通りに動かないことに苛立っていた、らしい。本来ならイルシアの暴露動画は、既にアップされていたはずだからだ。
それを「イルシアチャンネル」のコラボとすることに、どう阪上が反応するのか。一応、「後々C市を絡ませるという立て付けにすると言え」とは、高崎には伝えている。今日の打ち合わせにも、阪上には一応入ってもらうようにしている。
その上で、明日阪上が現地視察をするように手配している。奴が望んでいるゴイルなどとの会見撮影は認めず、あくまで「見学」にとどめるというものだ。
そこで、阪上にシェイダを付かせる。「情動操作」で阪上の精神を一時的に操作した上で、15年前の真相とその証拠を摑ませる。それが俺の立てたプランだ。
上手くいくかは分からない。阪上に念話が通じないのもボトルネックだ。そこは、俺とノアで何とかカバーするしかない。
*
ふと隣を見ると、ノアがすうすうと早くも寝息を立てていた。
『もう寝たんかいな』
『まあな。夜は大熊にシムル語の授業をしてるから、どうしても遅くなる』
『それってあんたもやろ?大変やなあ』
俺はラヴァリに苦笑する。健康ドリンクの高いヤツを飲んで、無理矢理身体を動かしているだけだ。正直、俺もそろそろ休みが必要な時かもしれない。
とにかく、今日と明日を越えれば、多少は楽になる。そして、今日より明日の方が、よりハードルは高い。気を引き締めていかねば。
*
この2時間後、俺はそんな自分の認識の甘さを、嫌と言うほど思い知ることになる。




