幕間1-2
「お、お茶をどうぞ」
僕はおずおずと麦茶をグラスに注いだ。町田さんは小さく「ありがとう」と言うと、一度座り直して僕を見る。
「すまない、名前を訊くのを忘れていた」
「い、市村です。市村響」
「市村君。とりあえず、簡単にいきさつを説明する。理解してもらえるかどうかは分からないが」
そう言うと、町田さんはこの城が現れたときのことを話し始めた。このノアという子が紛れもない魔法使いであること。異世界から「イルシア国」の中枢部が、そのままそっくり逃げてきたこと。そして、彼らの保護のために今後国を動かさなければならないこと……どれも、あまりに突拍子もなく、信じがたいことだ。
「……そんな、ラノベみたいなことがあるわけ」
「だが、この事務所の目の前には確かにイルシア王宮が建っている。ノアの言葉が不思議と理解できるのも、魔法のおかげだ」
「ま、まあ、確かにそうかもですけど……。だとしたら、さっきも訊きましたけど。なんでこれをマスコミに……」
「ちょっと考えてみてくれ。異世界が本当にあったと知ったら、ここにどれだけの人が押しかけると思う?好奇心から来る野次馬だけが来るならまだいい。邪な意図を持つ連中も間違いなくやってくる。
そうなったら、イルシアの人たちはどうなる?そして、俺も含めたこの近辺の住民の生活は?」
町田さんが身を乗り出し、目が鋭くなる。その口調の厳しさに、僕は気押されて何も言えなくなった。
それに、彼の言うことは正論だった。僕もここからそう遠くない場所に住んでいる。平穏が乱されるのは、真っ平ごめんだ。
黙り込む僕に、町田さんが静かに言う。
「分かってもらえたかな」
「は、はいっ……でも、僕は何をすれば」
「基本、何もしてもらわなくていい。普段通り、ここで仕事をしてもらえればそれだけでいい。
西部開発、並びにその親会社の西部鉄道との交渉は、そのうち国かC市がやることになる。君が異変を報告しないことがとがめられるかもしれないが、そこも何とかする。
ただ、ここの水道は使わせてほしい。あと、少し冷蔵庫も」
「水道、ですか」
「ああ。水は俺が昨日買ってきたが、全然足りてない。この事務所の水が使えれば、とりあえず水の問題はなくなる」
そう言うと、町田さんは外からホースを持ってきた。どうも、そのつもりでこの事務所の近くに置いていたようだ。ノアという女の子が町田さんに話しかける。
『水浴びしたがっている人は多いわ。特に女性陣は。お風呂はおろか水浴びすら、もう何日もできてないから』
「まあ、おまけにこのクソ暑い中だからな。シャンプーやボディーソープも買ってきて正解だった。……というわけで、外に色々人が来るかもしれないが、そこはあまり気にしないでくれ。C市との交渉が終わったら、またここに戻ってくる」
「交渉?」
「ああ。とりあえずは災害用の備蓄食料をもらえないかの交渉だ。それと、現状の不法占拠状態の黙認。イルシアの存在についても、市からは何も言わないようにさせる」
「交渉って、町田さんって何者なんです?そもそも、さっき国を動かすって言ってましたけど……」
ずっと険しい表情だった町田さんが、初めて愉快そうに笑った。
「無職だよ。ただ、金とコネは十分にあるけどな」
*
しばらくすると、町田さんたちが人を何人か呼んできてあれやこれや説明し始めた。胸の大きい、魔法使いみたいな格好をした女性はともかく、あの大男は明らかに人間じゃない。頭に角みたいのが生えている人間は、この世に存在しないからだ。
その前に立っている、見るからに偉そうな人も肌が青白く人間とは違った何かを感じさせる。これが「異種族」ってやつなんだろうか。
彼らが喋っている言葉は全く理解できないのだけど、町田さんは普通に話している。あれも魔法のおかげなのかな。
やがて、青白い肌の人が僕の方を見た。
『貴君が、ここの持ち主か』
言葉が通じる。日本語でいいのかな。
「あっ、持ち主ってわけじゃないんですけど……ここは会社の事務所なので」
『ギルドか商会の事務所ということだな。少し騒がしくなるが、よろしく頼む。
しばらく、交代でここの水を使わせてもらうことになる。極力貴君の邪魔はしないようにするが、うるさいようなら申し訳ない」
「あ、いえ、本当大丈夫ですので……」
今度は胸の大きな女性が前に出た。ニコニコとしてて、おっとりとした美人だ。
『くれぐれも申し上げますけど。私たちが水浴びしている最中に外に出たら凍らせますからね?
淑女の裸は、生涯を共にする男以外には見せてはならぬ定め。そうでない場合は、殺すしかありませんの』
……表情からは全く想像も付かない、物騒なことを言っている。僕は軽く震えた。
『心配しなくてもお前の裸なんて見ねえよ、アムル。まあ、そこのちっこい男。命が惜しかったら外をぶらつかねえことだな。何せ、2日間この王宮から一歩も外に出られねえから、皆気が立ってるんだ』
大男が言うと、アムルと呼ばれた女性が彼に詰め寄り何事か言った。すると大男は血相を変えて彼女の胸ぐらを摑む。
「アムル、アルケ・ジャメ・グロルド!!?」
「……ガラルド、ジャメ・オルト・ダルルム」
「……アヴ、デルタド・ゴイル」
青白い肌の男性が何事かを言うと、大男は忌々しそうに手を離した。アルムという女性は、相変わらずニコニコとした表情を崩さない。
男性が溜め息をついた。
『……まあ、そういうわけだ。貴君はここで静かにしておいた方がいい』
町田さんが時計を見る。
「15分交代で、ここの水道を使うそうだ。一回につき大体20人ぐらいか。多分……16時過ぎぐらいまでは使わせてもらうことになりそうだ」
「16時!?随分長いんですね……」
「何せ500人ぐらいいるらしいからな。怪我人もいるから、全員が水浴びできるわけじゃないが。俺たちはその間、C市市役所に行ってる。交渉の進捗次第だが、基本戻りは夕方だ」
「えっ、じゃあそれまでここには……」
「申し訳ないが、君1人だ。ただ、何か起こったときのためにこの猫を事務所の外に置いていく。……ということでいいんだよな、ノア」
ノアさんが頷く。彼女の肩に、小さな白猫が飛び乗った。
『使い魔のラピノよ。こっち来てからは感覚を『切って』たけど、少しここのマナにも慣れてきたから視覚くらいは共有できるようになったわ。この近辺に異常が発生したら、すぐに飛んで戻るつもり』
「飛ぶって、まさか文字通りか」
『もちろん。ただ、やっぱり消耗が相当激しいから、本当に最後の手段ね』
「……そういう事態が来ないことを心底願うよ」
町田さんが渋い表情になる。何か、色々あるらしいことだけは分かった。
「とにかく、君がすべきなのは『何もしないこと』だ。普段通りの仕事をしていて構わない。落ち着くまでは多分しばらくかかるだろうけど、その点は申し訳ない。とりあえず、留守はよろしく頼む」
町田さんが言うと、白猫が暢気そうに「にゃあ」と鳴いた。




