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話は30分ほど前に遡る。
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「シュッ、シュッ」
軽く息を吐きながら、左右の拳を軽く振る。走るペースは6分目程度。じっくりと、時間をかけていつものランニングコースを走る。
俺の日課は、早朝のランニングだ。俺は普段のほとんどをモニターの前で過ごす。外出する必然性を、ほとんど感じないからだ。
買い物はアマゾンと楽天、それとオイシックスの通販だけで事足りる。親しい友人も近くにはいない。ネット上の交流さえあれば、大体問題はない。
家族はもちろん、特定の恋人もいない。金を払えば女を買うことはできるし、昔はごく稀に都内に出てそうすることはあった。だが、それにどれほどの意味があるのかとふと思い、最近はそれすらしていない。出会い系などもってのほかだ。煩わしい人間関係など、邪魔な物でしかないのだ。
人は俺を「変わり者」という。そう言われて30年近くになる。昔はそれに思い煩ったこともあったが、それも慣れた。
金なら投資で十分すぎるほど稼いだ。社会に対する貢献は、もう懲り懲りだ。自分の日々の生活と、平穏さえ確保できれば十分。それに必要ない物は、そぎ落とせばいい。
S県C市東園大字420。東京都心から1時間半の、このド田舎での一人暮らしを始めて3年。
この単調ではあるが静かな生活に、俺は概ね満足していた。
……自分の力を抑え込む、退屈さを除いては。
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もっとも、外出しなければやっていけないこともある。肉体的健康の維持だ。
その気になれば、一日を家で過ごすことは可能だ。だが、ブクブクと肥えて醜くなるのは、俺自身許せなかった。何より、早死ににつながる。それは俺の本意ではない。
だから、早朝と夜の1時間ほど、家の周囲をシャドーボクシングしながらランニングする。俺が住むC市は山奥の地方都市で、足腰を鍛えるアップダウンには事欠かない。近所には箱根駅伝で有名な某私大の合宿所があるほどだ。
そして早朝と夜なら、疎ましいこの集落の爺婆と出会うこともまずない。既に村八分に近い状態だが、コソコソ陰口を叩かれるのは正直に言って気分のいい物でもないのだ。
朝のランニングをしたらシャワーを浴び、シリアル中心の栄養バランスの取れた朝食をとる。そして平日ならポートフォリオの管理とニュースチェック、休日なら海外スポーツの観戦をしながら日中を過ごす。
雨ならルームランナーと筋トレ器具を使い、同じ時間だけ自分の身体を虐める。トレーニング終了後の解放感は、俺にとって数少ない楽しみだ。
それが俺の、「日常」の始まりだ。
この日も、いつものような朝になるはずだった。……彼女に出会うまでは。
*
コースは毎日固定だ。家を出て、山の方へ。20分ほど走ると、右手に計画中止となったテーマパーク「SAIBUファンタジーランド」の建設予定地が見えてくる。計画中止となってもう数年経つが、いまだに広大な空き地が山の中腹にあるらしい。
ゴルフ場に転用しようという計画もあったと聞いたが、結局進んでいないという。コロナ禍の影響だけでなく、開発者の西部鉄道の経営不振も大きいのだろう。
とにかく、「ファンタジーランド 建設予定地」の看板が折り返しの目印だ。そこでUターンし、今度は家を通り過ぎて東園駅まで走る。そこでもう一度Uターンし、約1時間かけて家に帰る。それが朝のルーティーンだ。
前日夜に雨が降ったからか、今日は空気が涼しく冷たい。ランニングするにはちょうどいいコンディションだ。
朝6時という早朝だから、ほぼ誰とも出会うことはない。しかも土曜日なので、出勤や通学に向かう地元民もほぼ見ない。それも心地いいと言えた。
「ファンタジーランド」の看板が見えてきた。ここから先は、西部鉄道子会社、西部開発の私有地になる。申し訳程度のゲートが、闖入者の侵入を阻んでいた。
一応、平日にはこの上の管理施設に職員が来るらしい。来て何をするのかさっぱり分からないが。まあ、俺には関係のないことだ。
ゲートまで残り15メートル程度になり、俺は異変に気づいた。
……人がいる。それも、ゲートをくぐってこちらに来ようとしている。
「……ん」
俺は立ち止まり、様子を見ることにした。少し息が荒いが、すぐに整うだろう。
その人物は、まるで魔女か何かのような服装をしていた。黒いとんがり帽子に黒のローブ。ほとんどコスプレだ。
身長はざっくり150㎝もないぐらい。……小学生か中学生か?髪は長い銀髪で、それでその人物が女性であると知れた。
彼女はゆっくりとこちらに近づいてくる。日本人のような顔立ちではない。ロシアとか北欧とか、その系統の顔だ。相当な美少女であると言ってもいい。
俺の頭は軽く混乱していた。子供が探検するにしては、ファンタジーランド予定地はかなり辺鄙だ。しかも早朝に少女が入り込むような場所ではない。しかも、外国人のコスプレイヤ-?意味が分からない。
「……What are you doing?」
数年ぶりに英語を使ってみることにした。言葉が通じないのか、彼女はそのまま歩いてくる。ロシア語はさすがに履修していない。フランス語なら通じるのだろうか。
「……君は何をしている?」
無駄と知りながら、日本語に切り替える。彼女はそれを無視し、俺の目の前で止まった。
「クア・ディムル・オモルニ・デ・ザンデュ?」
……未知の言語だ。なんだこれは。インドネシア語?それともウルドゥー語か?
「いや、言ってる意味が分からないのだが」
彼女は一瞬顔をしかめると、ふうとため息をついた。そして、彼女は全く同じ言葉を吐いた。
『あなた、ここの国王か領主の場所は知らない?』
……今度は言っていることが理解できる。いや、というよりは「脳内に直接意味が届いた」、という方が正しいか。
「……どういう意味だ。というか、君は何者だ?そもそも、さっきの言葉は何語だ」
『たくさんいっぺんに質問しないで。『念話』するだけでも魔力使うんだから』
「『念話』?テレパシーみたいなものか」
『てれぱしーが何か分からないけど、あなたにこちらの思念を直接飛ばしているの。言葉に出さないと通じないのだけどね』
「思念を飛ばす、とか魔法とかオカルトじみたことを言うんだな」
俺の首筋に、冷たい物が流れ始めていた。そんな非科学的なことがあるものか。
しかし、彼女は不機嫌そうにこう答えた。
『魔法?このあたしが使えて当たり前でしょ?まあ、あなたは平民だから使えないだけなのだろうけど』
「……冗談じゃない。こんな魔法少女のコスプレをした子供がいてなるもんかよ」
その刹那、彼女の目が怒りに燃えたのが分かった。
『……あたしは子供じゃない。次言ったら細切れにするわよ』
「見た目は子供にしか見えな……」
刹那。彼女は懐から銀色の小枝を取り出した。それをヒュン、と一振りすると……
ザンッッッ!!!
何かが切り裂かれる、そんな轟音。
振り返ると、俺の後方10㍍ほど、路肩に立っていた杉の大木がゆっくりと道側とは逆の方へと傾いでいく。
「……は??」
ドォォォンッッ
再びの轟音と共に、土煙が辺りに広がった。民家は近くにはないが、それでもこれほどの音だと気付く奴はいるかもしれない。
俺は唾を飲み込んだ。これは……大変なことになる。
『これで信じてもらえた?』
少女は、険しい表情で言った。