幕間1-1
「……行ってきます」
返事はない。僕はいつものことと、無言でスイフトのエンジンをかけた。
時刻は朝8時半。最近にしては涼しい空気の中を、白いスイフトが進む。夏休みに入ったばかりからか、道を行く人は少ない。だからどうしたというわけではないけど、僕の心は普段よりは軽やかだった。
朝のLINEで、今日の担当の水上さんがコロナで欠勤との連絡が来た。1週間ほどお休みをもらうそうだ。穴埋めの正社員の人は来ないらしい。
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ファンタジーランドの事務所は、いつもは週替わりの正社員と、派遣社員の僕が事務所で勤務する。内容はというと、建設予定地の監視と、本社関連の雑務だ。もっとも、前者はほとんど有名無実化しているのだけど。
仕事内容は文書の整理や校正作業など、単純でつまらないものだ。正社員の人はそれを僕に押しつけ、スマホを弄ったりソシャゲをやったり好き放題して過ごしている。
正社員の間では、ファンタジーランド事務所の勤務は「オアシス」と呼ばれているらしい。実質1週間の休みをもらうようなものだからだ。……僕にとっては普通に仕事なのだけど。
この仕事の数少ないいいところは、時間がかっちり決まっていること。そして、何より「僕が存在していないかのように扱われること」だ。
そもそも、働きたくなんてなかった。家で引きこもって、ゲームとかネットとかをするだけでよかった。
何かをして目立つなんて考えたこともない。もう人に叩かれたり蔑まれたりするのはまっぴらだ。植物のように、静かに暮らしていければそれでよかった。
ただ、僕の親は「世間体」というやつを気にする人間だった。だから、市会議員の叔父さんのコネを使って、僕を無理矢理「西部開発」の派遣社員にねじ込んだのだ。
ファンタジーランド事務所での仕事は楽しくはない。無意味な雑用も多い。ただ、正社員の誰もが僕に無関心だ。それだけで、僕はある程度満足していた。
そして、これからの1週間は、その正社員すらいない。
雑務から解放されたわけじゃないけど、僕は本当に久方ぶりに気分の高揚を感じていた。
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そんな僕の気分は、10分後に一変する。
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ファンタジーランドの建設予定地に差し掛かろうとした時、僕はゲート前に2人の人影を見た。1人はやや背が高い短髪の男性、もう1人は背の小さい銀髪の少女だ。外国人、だろうか。道ばたにはシルバーのアクアが停められている。
男性は僕を待っていたかのように大きく手を振った。……一体何だというのだろう。
「どうかしたんですか」
ゲートの前で停車し、僕は降りて彼らに呼びかける。
「西部開発の社員の方ですか」
「えっ、はい。社員じゃなくて、派遣ですけど」
男性と少女が顔を見合わせる。すると、少女が聞いたことない言語で僕に話しかけた。
『あたしの言っていること、分かる?』
……分かる。これが日本語じゃないのは間違いないのに。僕は驚きながら、小さく頷いた。
少女の顔が少しほっとしたような感じになる。
『よかった。この人も『念話』が通じないかと思った』
「まあ、個人差があるんだろうな。……さて、ちょっと話がある。極めて、重要な話だ」
「……は?」
「まあ、見てもらうのが一番早いか。車に、少し乗せてもらっていいかな。上の事務所までの、ごく短い間だが」
男性の目は鋭く、とても冗談を言っているようには見えない。少女もそうだ。何かが起きている、僕はそう直感した。
「建設予定地で殺人事件か何か?お兄さんは、刑事か何かですか」
「事件、といえば事件だ。ただ、俺はあいにく刑事じゃない」
「警察を呼べばいいじゃないですか」
「警察を『呼べない』んだ。まあ、見れば分かる」
僕は渋々、彼らを後部座席に乗せた。鍵が壊れたゲートを開け、森の中の坂道を登る。
「一体何があるというんですか?それに、あなたたちは一体」
「すぐに分かるさ。……ほら」
坂道を登り切り、視界が開けた。……そこにあったものは。
「……は???」
白い城壁と、その向こうに見える尖塔。そして門を守護する、鎧姿の兵士。
僕は、ファンタジーランドがいつの間に完成していたのかと目を疑った。あれは確か、中世を舞台にしたRPG風世界を再現するというコンセプトだった。もしプロジェクトが実行に移されていたら、ちょうどこんな感じの建物が建てられていたはずだ。
しかし、金曜日までここには何もなかった。ただの、何もない更地だった。それがわずか2日間で、こんなお城のような巨大建築物ができているなんて……
「こ、これは一体何なんですか!!?」
後部座席から少女が顔を出した。
『イルシア国王宮よ。あたしは、こことは違う世界からやってきた』
「……え」
男性が車から降り、尖塔を見上げた。僕も後に続く。
「君は、ファンタジーものの漫画やアニメは見るか」
「あっ、はい。……結構、好きですけど」
「なら話が早い。これは、異世界から来たものだ。いわば『逆異世界転移』だな」
「……うぇっ」
驚きのあまり、変な声が出た。そして乾いた笑いしか出ない。人間、本当に理解ができない者を目の前にすると、笑うしかないというのは本当のようだ。
「まあ、驚くよな。だが、これは事実だ」
「こ、これ、知っている人って」
「俺含め2人しかいない。そのはずだ。そして君が3人目になる。自己紹介が遅れた、俺は町田智宏。この近所に住んでいる。そしてこっちが」
『ノアよ。ノア・アルシエル。イルシア国第一級魔導師をやってるわ』
「……何で、これを皆に知らせないんですか。超、超大ニュースじゃ」
「ニュースとしてでかすぎるんだよ。そして、俺たちがここに来て君を呼び止めたのは、口止めのためだ」
「ふえっ!?」
意味が分からない。もしこれを動画とかで流せば、一躍時の人になれるじゃないか。お金だって、稼げるかもしれない。
しかし、町田という男性の目は真剣そのものだ。どうも、本気らしい。
「この後、ここに誰か追加で来る予定は」
「い、いえっ、ないですけど……」
「そうか、それはツイている。ここで立ち話も何だ、詳しくは事務所の中で話そう」
*
この瞬間を境に、「植物のように生きる」という僕の生涯の目標は、砕け散ったのだった。




