18-5
『着いたよ』
ノアに言われて目が覚めた。虎ノ門を出てすぐに寝入ってしまったらしい。
辺りは当然のように暗い。スマホを見ると、時刻は21時をとうに過ぎていた。
C市から山梨県へと抜ける国道を、この時間に通る車はかなり少ない。滝川峡谷の休憩所の駐車場に停まっている車も、このハイヤーだけだ。
「一応訊くが、体力と魔力は大丈夫か」
『うん。ここからイルシア王宮まで飛んで戻ってくる分には問題ないと思う』
「了解だ。じゃあ、行くか」
ノアは俺におぶさり、ふわっと俺ごとその場に浮かんだ。そして、辺りに誰もいないことを確認した後、ノアは一気に夏の夜空に飛ぶ。
この時間帯、飛んでいる俺たちが気付かれる恐れはほぼない。何せ上空100mだ。よしんば気付いたとしても、騒ぎになるほどこの近辺の人口密度は薄い。
問題は、イルシア王宮に近付いた時だ。上空からヘリが撮影していた場合、そこで気付かれると面倒なことになる。
「……やはり、かなり人がいるな」
10分ほど飛んで、俺とノアは飛ぶ速度を落とした。イルシア王宮のある方面が、はっきりと明るくなっている。テレビ局などマスコミが群がっているだけではない。恐らくは警備のための警察、ないしは自衛隊もかなりいる。
そして、より厄介なのはサーチライトの存在だ。警備のやり方としては正しいのだろうが、俺たちにとってはかなり厄介だ。
それに加えてヘリが2機ほど飛んでいるようにも見える。これらを掻い潜ってイルシア王宮に侵入し、なおかつシェイダを抱えてハイヤーに乗せるというのはなかなか無茶なプランだ。
それでもこのノアの発案を通した理由は2つある。
まず、単純に方法がないことだ。カシュガルが死ぬまでの時間がどれだけあるか分からない以上、明日までに彼女を虎ノ門まで連れてくるには多少強引な手段を取らないといけない。
もう一つ、ノアが相当な自信を見せていたことだった。確かに彼女の魔法はかなりのものだ。特に「ソルマリエ」を飲み、俺と結ばれてからはほとんど万能なのではとすら思える。
ここは彼女を信じて乗ってみようと、俺は根拠なく思った。これも1つの愛なのだろうか。
『まあ、簡単じゃないわね。トモ、もう少し行ったら一旦降りるわよ』
「イルシア王宮まではまだ結構あるぞ?それでいいのか」
『上から入るのはやっぱちょっと難しいわね。だから、もう一つの手段を使うわ』
「もう一つ?」
『そ。シェイダに『来てもらう』のよ」
俺たちはしばらく飛び、イルシア王宮がある場所から少し離れた林道へと降り立った。もちろん、この道はイルシア王宮には繋がっていない。イルシアに忍び込もうとするマスコミや野次馬の姿もなく、実に静かなものだ。
「ここに何かあるのか」
『何もないわよ。ただ、この辺りなら10分か15分で、『彼女』が来るんじゃないかしら』
「……彼女?」
ノアが『ふふん』と笑う。
『さて、誰でしょう?』
俺は腕を組んで思案する。空を飛べるとしたらジュリだが、彼女にもはや神族としての魔力は殆ど残っていないと聞いている。他にそういう芸当ができそうなのがいるのだろうか。
10秒ほど考え、俺は「そうか」と得心した。
「……空から来るんじゃない、『山を突っ切って来る』わけか」
『さすがトモね。とりあえず、少し待ちましょ』
暫く経つと、山の方から草と草をかき分けるような音がする。まるで獣が駆けてくるかのようだ。……いや、文字通りか。
『お待たせしましたニャ!』
暗がりの中から白猫が現れた。「彼女」に会うのも久々な気がする。
『ラピノ、お疲れ様。誰かに気付かれなかった?』
『ニャ。さすがに大丈夫でしたニャ。それにしても凄い人だかりですニャ。山の方ならともかく、集落の方に行くのは猫の姿でもなかなか面倒ですニャ』
『でしょうね。イルシアの様子は?』
ラピノが『うーん』と唸った。
『率直に言って混乱してますニャ。忍び込もうとした奴をガラルド様が捕まえて痛めつけようとしたり、そいつの引き渡しでこの世界の人と一悶着あったり。
ニホン語が使えるのが御柱様とヒビキ様だけなので、負担が相当かかっちゃってる感じですニャ。念話が通じる相手かどうかはやってみないと分からないですし、すごく率直に言ってノア様に戻ってもらえると助かりますニャ』
外部との折衝を俺とノアに頼ってきたツケか。明日になれば政府からの増員があるだろうから外部からの侵入は防げるだろうが、窮屈さはかえって増してしまうだろう。この状況はしばらくは続いてしまうかもしれない。
市村とジュリ、そしてゴイル辺りが、ガラルドなど血の気の多い連中を上手く宥めてくれればいいのだが。
ノアも状況を察したのか、ふうと息をついた。
『実はイルシアに戻ってくるためにこっちに来たんじゃないのよね。シェイダをトウキョウに向かわせたいのよ。ここを襲おうとしてきたカシュガルって奴の記憶を探りたいわけ。
帝国はそう遠くないうちにこの世界にまた誰かを送り込むと思う。今度は完全に戦争を仕掛けに、ね。
それに対抗するには、いつ死ぬか分からないカシュガルから、できるだけ早く情報を得る必要がある。それができるのは、シェイダぐらいってわけ』
『でも、普通にやったら連れ出すなんて絶対に無理ですニャ。妙案とかあるんですニャ?山を抜けるのは、人間の身体じゃちょっと無理がありますニャ』
『人化術が使えるようになったあなたなら、その逆……『獣化術』もできるんじゃない?』
ラピノは一瞬きょとんとして、『ニャるほど』と前脚を上げた。
『『獣化術』……そういうことですかニャ。こっちでやったことはないけど、試してみますニャ』
「獣化術」……?
「まさか、シェイダを猫にするのか。ジュリが市村にしたのとは、違うやり方だよな」
『そ。あれは身体を入れ替えるってやり方。効果時間が長いけど、ヒビキが猫になるわけじゃない。こっちは文字通り『猫』にしちゃうわけ。その代わり、効果時間は短いしラピノも消耗するけど』
ラピノは『この世界の『カツオブシ』をたっぷり所望しますニャ』という。一度食べさせたきりだが、随分と気に入ったらしい。
「俺も一度、イルシアに行っていいか?ちょっと様子を見たい」
『猫になろうっていうわけ?トモってたまに思い切ったことするわよね……』
「とりあえず、ガラルド辺りに今後の方針を言い含めておくさ。せっかく交渉である程度こちらの言い分は飲ませたんだ、自爆でフイにするのは勿体無いだろ。ラピノ、同時に2人に術をかけられるか?」
ラピノは『やってみますニャ』と頷いた。
「じゃあノア、少し待ってくれ。1時間もしないうちに戻る」
『分かった。じゃあ、その間トモの家に戻って軽く湯浴みでもするわ』
俺は鍵をノアに渡す。ラピノが俺の頭の上に乗り何やら呪文を唱えると、みるみるうちに視界が下がっていく。服はその場に脱ぎ捨てられた形だ。
掌を見ると、そこには肉球があった。どうやら本当に猫になってしまったらしい。
ノアがあちゃあというように手を頭にやった。
『あー、やっぱりそうなるか……シェイダの服もトモの家にあるから、それも持ってくる』
「すまにゃい。じゃ、よろしくたにょむ」
口調まで猫になるのか、どうにも締まらないな。
『了解。トモ、気を付けてね』
『じゃ、行きますニャ。走り方とかはすぐに慣れますニャ』
そう言うとラピノが山へと駆け出す。俺も四つ脚で慌ててついていった。バランスの取り方がかなり難しく、躓きそうになる。
それでもこの身体は身軽だ。人間では到底駆け上がれそうもない坂道や崖でも、普通に登れる。
『ついてこれてますニャ?』
「何とか大丈夫にゃ。意外と早く……」
その時だ。闇に紛れて、崖を登ろうとする人影がある。人間の目では、きっと見落としていただろう。
人ではなく猿か何かかと思ったが、あの大きさは……間違いなく人間だ。
「ラピノ、先に行けにゃ!」
『ニャ!?』
「誰かがイルシア方面に向かっているにゃ!そいつに対処するにゃ」
人影がこちらを見た。
「哎呀!?」
中国語かっ!?
まだ警備が厳重でないうちに盗聴器かカメラを設置し、唾を付けようという肚か。
それにしても動き出しが早い。アメリカは表から圧力を掛けてくると見ていたが、中国の方が手が早いとは想定外だった。
俺は人影の方に向かう。
「是猫吗(猫か)……」
こっちに来るのが猫と思い油断したのか、小さなリュックを背負った黒い服の男は安堵の息を漏らす。だが、残念ながらこっちはただの猫じゃない。
肉球から爪を引き出すやり方は本能で分かった。俺は飛びかかりながら、それをそいつの顔面に振り下ろす。
「噢!!?」
男が岩から手を離した。そのまま数メートル下の地面へ落下……と思いきや、空中で身体を捻り崖を蹴ると、そのまま近くの木の枝にぶら下がった。猿か何かのような軽い身のこなしに、俺はそいつが特殊な訓練を受けた人間と察した。
「你是谁(何者だ)」
「那是这里的线(それはこちらの台詞だ)」
片言の中国語で訊くと、低い声で答えが返って来た。俺はもう一度飛び掛からんと、崖の僅かな突起に立ち身を屈める。
「……退出(撤収する)」
男はそう呟くと、パルクールか何かの要領で崖の下に降りていった。
明らかにただの野次馬ではない。これは、明日からの警備体制を大幅に増強してもらわないとまずいな。
恐らく、中国政府は白を切るだろう。あれが中国の手のものだという証拠はない。だが、イルシアに何らかの形で関与しようとする意図は明白だった。
それはアメリカも同じだろう。中国と違い、多分表玄関から圧力をかけてくる。同盟国であることを口実に迫られれば、あの大前総理では抵抗できないだろう。
イルシアはある程度の権利は保証されたものの、主権国家として認めてもらうにはあまりにハードルが高い。あくまで彼らは難民に準じた扱いであり、イルシア王宮は一種の難民キャンプなのだ。
移動の自由も相当制限されるだろう。それは彼らがトラブルを起こしかねないからというだけではない。東側の国が彼らを拉致したり誘惑したりすれば、相当な混乱が起きることは明白だ。
日本としてはできるだけイルシアを管理下に置いておきたいだろう。そうした中、俺にできることは何だ?
考えはまとまらない。とりあえず、今できることはイルシアの人々を落ち着かせ、その上でシェイダをカシュガルの元に向かわせることだ。
俺は踵を返し、再び崖を駆け上がった。




