17-11
カシュガルは糸が切れた操り人形のように、膝から崩れ落ちた。俺はしゃがみこみ、深い安堵の息を漏らす。……間一髪だった。
「もう一人いたはずだけど?」
「……ヴェスタか。あいつなら、向こうに」
俺はかなり離れたところで動かなくなっているヴェスタを見やった。生きているのか、それとも死んでいるのかは現状では分からない。
「そう……僕が持ち場を離れなければ、こんなことには……」
亜蓮が唇を噛む。確かにそうかもしれない。ただ、彼はまだ14歳の少年だ。父親の命の危機を察した時、そっちを優先してしまったのはある程度仕方がないことだ。
だが、柳田の治療にメドが付けば、こちらに戻ってくるだろうとも思っていた。大熊と違い、柳田の傷は胴体には達していなかったはずだ。
亜蓮が治癒魔法をどれほど使えるかには確証が持てなかったが、読み通りならそのうちにこちらに来るとみていた。その予想通り動いてくれただけでも十分だ。
俺は小さく首を横に振った。
「柳田官房副長官の容態は?」
「一応、傷は塞いだよ。出血が酷いし、腕も斬られたけど……輸血すれば、何とかなると思う、多分」
救急車のサイレンが、あらゆる方向から聞こえてきた。ここから先は、病院の仕事だ。
岩倉警視監も、手首を斬られたまま動かない。俺はハッとなって、亜蓮に彼の止血を頼んだ。こっちもこっちで、放っておけば命が危うい。
そして、俺はノアたちのいる方へと走る。ノアとアムルの涙を見て、俺は大熊がどうなっているかを察した。
「……大熊は」
ふるふると、ノアが首を振る。大熊はピクリとも動かない。地面に臓物の一部が溢れているのを見て、俺は「クソっ」と呟いた。
『……できる限りのことはしたの。でも……こんなの、治しようがない……』
『私のせいですわっ!!私が、オオクマ様の方にもう少し注意を払っていたならっ……!!!』
アムルが泣き叫ぶ。俺は辺りを見渡した。
ベギルにやられたと思われる機動隊員は、数人ではきかない様子だった。生きている機動隊員も、苦痛の呻きをあげている。……まるで地獄を見るようだ。
このままだと、俺たちはペルジュードの撃退と引き換えに、あまりに多くのものを失うことになる。
それだけじゃない。モリファス帝国からの侵攻に怯え続けなければならなくなる。
カシュガルの行動など、読めるはずもなかった。しかし、こうなってしまったのは……俺の責任も相当に大きい。交渉など考えず、拘束した時点で奴をすぐに殺しておくべきだったのだ。
『トモ……』
悲痛なノアの呟きに、俺は我に返る。
……何にせよ、俺にできることはもうない。最悪の事態に備えた手は、既に打っている。俺ではなく、市村が。
俺はスマホを取り出し、市村にかけた。1コールもしないうちに、「町田さん」と彼の言葉が聞こえた。
「……すまない。まだニュースには流れていないが……大規模な戦闘が起きてしまった。まず間違いなく、イルシアはこれから国家管理体制に置かれる。
その前に、君の案を実行に移して欲しい……少しでもイルシアに自由が残るように」
「状況なら、阪上が持っていた『遠見の水晶』で把握してます。……黙っていてごめんなさい、町田さんの視界は、共有させてもらっていました」
いつの間に。ただ、市村の魔力はシムル人の魔法使いにも匹敵するものらしい。そのぐらいの芸当はできても不思議ではない。
「なら話は早いか……すまない、こんなことになってしまった」
「いえ、いいんです。僕もジュリも、覚悟は決めましたから」
「……覚悟?」
少しの間の後、市川が驚くべきことを口にした。
「これから、ウィルコニアを発動させます。この30分間で、カシュガルとあの灰色の巨人に傷つけられ、殺された人々を『復活』させるんです」
「……は??」
俺は耳を疑った。死者を蘇生させる……だと??
「ウィルコニアがどういうものかは、よく知りません。ただ、ジュリが言うには、『因果律を捻じ曲げる遺物』と言っていました。
殺されたばかりで、魂がまだ身体に残っている人なら、『30分前程度なら時間を巻き戻すことができる』って」
市村の声は沈んでいる。それが何かの大きな代償を伴うものだと、俺はすぐに察した。
「……ただじゃ、ないんだな」
「……ええ。まず、ウィルコニアに蓄積されていた魔力は、ほぼ使い切らないといけません。イルシアがシムルに戻るのは、多分……早くて数年先になると。
そして、複数の人を蘇生させるとなれば……ジュリもただじゃすまない。神族としての寿命と力を、ほぼ使い切らないと無理だって……」
俺は唾を飲み込んだ。
「彼女は、それでもいいと言っているのか」
「……はい。『ボクたちが招いた災いなのだから、御柱たるボクが始末しないと』、って……」
市村が泣いているのが分かった。その後ろで『電話を貸して』というジュリの声が聞こえる。
『トモさん、ボクなら大丈夫だから。別に死ぬわけじゃないしさ』
「しかし……それでゴイルたちは納得するのか?」
『ゴイルにはボクが話すよ。それに、ちょうどよかったのかもしれない。イルシアを、神族から解放するという意味では』
「それはどういう意味なんだ」
『ははは、それはまた話すよ。とにかく、ウィルコニアはすぐに発動させる。あとは、ヒビキが何とかしてくれるはずさ』
俺はどう答えるべきか、一瞬躊躇した。今ここでウィルコニアを使えば、メリア・スプリンガルドの病を治す手段はなくなる。柳田と亜蓮は激怒するかもしれない。
だが、大熊や岩倉警視監を救うには、もうこれ以外の選択肢がない。そして、騒動をある程度穏便に収められる方法も、これ以外にないのは明らかだった。
「……分かった。進めてくれ」
『うん。発動が終わったら、すぐに『会見』を始めるよ。そっちでも見ておいて』
電話は切られた。そしてしばらくすると、東京タワーの上空に赤い色の雲が立ち込め始めた。
『……何、あれ』
「ジュリが、ウィルコニアを起動させたんだ」
『……えっ』
ノアの表情が固まる。そして。
コォォォォォォォォォ
空気が何かで震えているのが、すぐに分かった。次の瞬間。
ゴオオオオォォォォォォ!!!!
震えは更に強くなり、東京タワー周辺を、赤い光の矢が所狭しと降り注いだのだった。




