17-3
ラヴァリの涙を見た瞬間、嫌な記憶が蘇った。六本木でノアが亜蓮から俺たちを逃した時のことだ。
あの時、ノアは魔力切れの危険を顧みず「転移」を使った。その結果どうなったかは、今でも鮮明に覚えている。
『……状況は分かった。でも進むしかないじゃない!』
ノアが飛行速度を上げる。東京タワーが一気に迫ってきた。その瞬間。
ブワッッッ
目の前が茶色と黒の「壁」で覆われた。鳥の群れが、これ以上先に進むことを妨げているのだ。
「ノアッ!?」
『方針転換よっ!』
急旋回して回り込もうとするが、それも阻まれた。後ろにいるアムルたちも悪戦苦闘している様子だ。
「さっきみたいに落とせないのか!?」
『地面が近くないと『重圧波』は効果ないわ。それに、この鳥たちを殺したら、多分プレシアにもダメージが行くんでしょ?』
魔法を使おうとしていたアムルも、ノアの言葉にその動きを止めた。
『……面倒ですわ。敵なのですから、殺してしまっても問題ないはずですのに』
『魔法の使い手はラヴァリの恋人らしいのよ……確かに鳥を殺した方が早いかもしれないけど』
『オオクマ様、どう思われます?』
大熊はしばらく黙った後、「町田、通訳頼めるか」と俺を見た。複雑な会話は、まだシムル語ではできないらしい。
「殺さない方がいい。俺には難しいことはよく分からん。だけど、人が死ななくて済む方法があるなら、そっちを選びたい。……俺が甘いだけかもしれねえが」
俺の通訳を聞いたアムルは、なぜか嬉しそうな表情になった。
『そうですわね。オオクマ様は、いつも私に新しい学びを与えてくださりますわ』
アムルがどこに感心したのかは分からないが、とにかく彼女は攻撃態勢を解いた。
『でもどうするのよ。これじゃ全然近づけないわ。地上に降りて、徒歩か何かで向かう?』
「いや、妨害するのが鳥から犬猫のような別の動物に代わるだけだろうな。結局、プレシアが死ぬか、魔法を自分で解除するように仕向けるしかない」
『実質、後者しかないわけね。問題はどうやってそこまで持っていくかだけど』
ノアの言う通りだ。どうする。
「……ノア、一応感知魔法を使ってくれ」
『え?カシュガルたちの位置を調べるの?まさか、直接叩くとか』
「いや、俺の直感が正しければ、プレシアとカシュガルは別行動だ。命を削って魔法を使っているのが本当だとすれば」
ノアが一瞬黙り、「そうか!」と叫んだ。
『身動きできないほど消耗するような魔法なら、カシュガルたちに同行はできないはず……!』
「そういうことだ。そして多分、プレシアはまだ『そこ』にいる」
ノアはしばらく黙ると、『あそこね』とほぼ真下を指差した。やはりか。
「アムルと大熊はそこで少し待機してくれ。とりあえず、ケリを付けてくる」
「ちょっと、こんな高い場所に放置か!?」と叫ぶ大熊を尻目に、俺たちは「そこ」……柳田が用意したウィークリーマンションに向かう。
玉田たちが動ける状態かは確信がない。表玄関ではなく、プレシアがいると思しき一室のベランダに俺たちは降り立った。
『プレシア……』
不安そうなラヴァリを横に、ノアがあっさりとガラス戸の鍵を壊す。
そこで俺たちが目にしたのは、異様な光景だった。
「ぐっ……」
「カヒュー、カヒュー……」
入った部屋には、2人の黒服姿の男が倒れていた。顔色は紫色で、重篤な症状なのがすぐに見て取れる。ただ、それだけではない。
……手足の先が「溶けている」。
ラヴァリの表情が、一瞬で恐怖に染まった。
『『死病』、や』
……何っ!!?
『ちょっと、どういうことよ!??』
ノアが叫ぶ。ラヴァリは『……分からん』と呟いた。
『『死病』は、人から人へとは伝染らんはずや。ただ、食い物や土地、死体からは伝染る。……カシュガルの奴、汚染された食い物を持ち込んで食わせたんや……!!』
『どうすればいいのよっ!?』
『俺らにはどうすることもできん……それよりプレシアや』
ラヴァリが奥の部屋に向かおうとすると『来ないで』と掠れた声が聞こえた。
『プレシア!!俺や、ラヴァリや!!頼むから、魔法使うのやめてくれ!!!これ以上は、お前が……』
『……いいから、来んといて。私は、もう、ええの』
『んなこと言われて黙ってられる……え』
リビングに押し入ったラヴァリが固まっている。後をついていった俺たちも、その様子を見て絶句した。
ソファーに座って、短剣を抜いて構えている少女。その顔色はさっきの男たち同様紫色で、足の先は既に、なくなっていた。
『プレシアッ!!!』
『来ないでって言ってるやろ!!……私は、もう、助からんの』
『何で『死病』に罹っとるんや!!まさか、カシュガルにっ……!!』
『……これが、私の『任務』。お父様やお母様を救うためなら、私の命など惜しくないわ。
そして……やはり来たわね『白い魔女』。この時を、待ってたんよ』
薄く笑うプレシアを見て、ゾクリと悪寒が走った。天井からドタドタと音がする。これはっ!!?
バリバリバリバリッッッ!!!
キーキーという甲高い鳴き声で、俺はそれが何かを即座に察した。
「ネズミだっっ!!!」
同時に、無数のネズミが天井を食い破り俺たちに降り注いだ。その牙は鋭く剥かれ、俺とノアの頸動脈に向けられている。……まずいっ!!
「くっ!!?」
身をかがめ、痛みに備えようとした時、ノアの銀のロッドがプレシアに向けて振り下ろされた。
『『魔刃』ッッッ!!!』
……ザシュッッ
ネズミはそのまま床に落ちる。そして、カランという音と共に、プレシアが握っていた短剣も手首ごと落ちた。魔剣を介して使われていた魔法の効力が、途切れたのだ。
『グッ……』
『プレシアっっ!!今、治……』
ラヴァリの言葉が途中で止まった。彼女の掌は既に溶け、短剣の柄と一体化していたのに気付いたからだ。
『だから、もう、ええって……』
『見捨てられるかドアホ!!!』
止血のため、ラヴァリが彼女に治癒魔法をかける。床に溢れたネズミはベランダの方へと逃げていき、その不快な悪臭だけがリビングに残った。
『トモ、気付いてくれて助かったわ。一瞬遅れていたら、危なかった』
「……あれしか、なかったんだな」
小さくノアが頷く。
『あれだけのネズミを同時に殺す魔法は、あの僅かな時間じゃ唱えられなかった。なら、その元を断つしかなかったわ』
「……そうか」
リビングの向こうに人影が見えた。
「……町田、か」
よろよろと、玉田がドアを開けてやってきた。さっきの部下に比べると、幾分か顔色はマシだ。
「何があったんだ!?」
「あの、カシュガルという男に、やられた……『シムル土産だ』と、ミカンのような果物を振る舞われた……あいつらも食ってたから、油断した……」
汚染されたものとそうでないものを事前に分けて与えたのだ。そして、汚染された果物を食べた玉田たちとプレシアは、『死病』に冒されたということか。
ノアが玉田に駆け寄り、掌をかざす。『応急措置だけど、毒素はまだ体の芯には通ってないと思う』と呟いた。確かに玉田の手足の先は、まだ溶けている様子がない。
「他の奴らも治療できるか!?」
『やるだけやってみる。……助けられなかったらゴメン』
ノアが奥の部屋へと戻る。ラヴァリとプレシアを見ると、ラヴァリが涙をポロポロ流しながら跪いていた。プレシアの顔色は、紫から血の気のない、白いものへと変わっている。
……あの時の、ノアと同じだ。
俺は状況を把握して唇を噛んだ。
「死病」に冒されていたところに、命を削りながらの最期の攻撃。もう、助かりようがない。
『……何で……何でこんな馬鹿なことを……』
『……国を救うには、これしか、なかったん……ウィルコニアを、ゴフゴフッ、使うしか……』
『ええから喋るなっ!!!そもそも、何でカシュガルに、『死病』に罹らされて……』
『……私のは、ここに来る前から……ウルユの実は、最後の一押し……ゴフゴフゴフッ!!』
口から血が流れているのが見えた。……彼女はここに来る前から、助からない状態だったのか。
ようやく合点がいった。彼女は初めから、捨て駒だったのだ。それで俺たちを殺せれば御の字というぐらいの期待しか、おそらくはカシュガルは抱いていなかったのだろう。
……話には外道だとは聞いていた。しかし、こうやって命を使い捨てにするのを見ると、心底吐き気を覚えた。
ラヴァリはなおも泣き叫ぶ。
『せやかて!?拒否くらいできたやろ!?生きたくなかったんか!!?』
『……シムルの、モリファスを救うことが……ペルジュードの使命……ラヴァリも、分かってる、はず……』
『でもこんなのは、こんなのはあんまりや!!何でお前は昔から、そんな’クソ真面目なんやっ……!!』
プレシアが、もう先端がなくなった手を弱々しく上げる。まるで、なくなった掌でラヴァリの顔を触ろうとするかのように。
『ゴメン、ラヴァリ……私も、あなたと生きたかった……あなたは、せめてあなただけは……』
『死ぬなドアホ!!今、今治してやるからな!!』
半狂乱になりながら、なおもラヴァリは治癒魔法をプレシアにかけ続ける。
しかし、その呼吸は確実に弱くなり、目からも光が失せていくのが俺にも分かった。
『……ラヴァリ』
応急措置を終えたらしいノアがリビングに戻り、ラヴァリに向けて首を横に振った。
『何や!!諦めろ言うんか!!!』
『あなたほどの使い手なら、分かってるはずよ。治癒魔法じゃ、『死病』は万一何とかできても、『魔力枯渇』は治せない……』
『分かっとるわ!!!そんなの、分かっとるんやあ……』
ラヴァリが崩れ落ちる。そして、プレシアが小さく呟いた。
『シムルを、救って……お願い』
大きく息を吐くと、それきり彼女は動かなくなった。




