曇天を君と。
潮騒を聞きながら僕は彼女を眺めていた。墨汁を染み込ませたような空の下で、彼女はローファーと靴下を脱いで笑顔で波を散らしている。僕は彼女を眺めている。
「私たちって、どこに向かうのかな」
不意に笑みを浮かべたままそんなことを言う。僕は暗い海の先を眺めていた。どこに行くんだろう、どこに向かえばいいんだろう、先の見通せない将来はきっとひと刹那が折り重なった今の延長線上で、それを人生と呼ぶのなら。
僕らはどこへ進めばいいのだろうか。
◇◆
ニューノーマルな世界に僕らは生きているらしい。未知のウイルス、未曾有の事態。テレビで流れるのは鬱蒼とするものばかりだ。
僕は制服に着替えると、マスクをつける。都会では緊急事態宣言が発令され、医療の崩壊が囁かれ始めている。
けれど太平洋を抱くこの土地ではさして現実味がない。とりあえずマスクをして、とりあえず手洗いうがいをして、とりあえず消毒をする。危機感の欠如が如実に表れている。
きっと僕の与り知らないところで苦しんでいる人がいることは分かる。理解も出来る。けれど実感するにはあまりに現実離れしているように思えた。
マスクをつけること自体、僕らにとっては冬の延長のようなものだと言うのはさすがに穿ちすぎだろうか。
学校の在り方も変わったとは言うが、この田舎ではさして変わりがない。せいぜい修学旅行が中止になったと嘆く程度で、大騒ぎしているのは大人たちばかりだ。
僕はスマホを取り出し、トレンドを確認するもウイルス関連のものばかり。液晶画面の向こう側では僕の知らない世界が広がっているように思えた。
今、学校で流行っているのはオシャレなマスク。色とりどりの模様をつけたり、カラーリングしたりとせわしない。僕はどこにでも売っているプリーツマスクで、友人の話にも乗ることが出来ないでいる。
空を見上げれば僕の心を映したような、世界の願いを阻むような重苦しい色。今にも雨が降ってきそうだな、とそんなことを思う。連日の雨にそろそろ嫌気がさしていた。
学校につくと電灯がついていた。昔、小学生のころはこの蛍光灯が昼間についていることに特別感を覚えていた。台風が来れば心が湧きたった。幼少期の心は不思議なものだ。
教室に入ると廊下側の窓際にある一番奥の席にひとりだけ、腰を下ろして文庫本を読んでいる同級生を見つける。彼女も僕と同じように白のプリーツマスクをつけている。
「おはよ」
「……おはよう」
文庫本から視線を上げて、僕は耳からイヤホンを外して挨拶を交わす。僕の席は彼女の隣りである。椅子を引いてスポルティングバッグを机に乗せる。
「ねえ、雨、降るかな」
「降水確率は四十パーセント」
「微妙だね」
彼女はそう言って目を細める。いつか聞いたことがある。日本人は目の形で表情を読み取り、外国人は口の形で表情を読み取ると。それが正しいのだとすれば、マスクが常用になった世界で僕らはその目の形だけでやり取りが出来るのかもしれない。
時刻を見ると七時。まだ他のクラスメートの影は見えない。半過ぎあたりから少しずつ増えていき、八時を過ぎれば騒がしくなる。だからこそ、この静けさは僕にとって貴重な時間だともいえる。
「そう言えばね、雨が降るかどうかは海を見れば分かるって」
「なんで?」
「南側から風が吹いてるから雨雲が見えるんだって」
そんなものだろうか。風なんて東西南北どこからでも吹いているような気もするのだけど。
「信ぴょう性は?」
「うちのお父さんってわりと適当だから」
「なるほど」
彼女の父親はどんな仕事をしていたのか、話した覚えはあるのだけれど思い出せない。些細な雑談の中のひとつは泡沫のように脳内から薄れていく。彼女と思い出深い話をすることはない。
きっとこの先もそうだろう。ただ朝早くに登校するふたりで、それ以上でも以下でもない。単なるクラスメート。ただの雑談をするだけの数少ない友人。
「なんかさ」
彼女は話題を変えた。僕はスポルティングバッグから小説を取り出していたときだった。
「息苦しいよね、これ」
人差し指でマスクのゴムを引っ張った。「仕方ないんじゃない? こんなご時世だし」と僕は返す。いたって常識的なことを言ったつもりだが彼女は「む」と納得がいかなかったらしい。
「最近思うんだよね。みんなマスクが当たり前になって、だんだん顔が思い出せなくなってきて、なんだかモザイクがかかってる気がする」
「冬になれば伊達マスクなんてあるじゃん」
風邪予防という大義名分を得てマスクをつける文化はいつから始まったのか、僕は知らない。けれど、気付けばそうなっていた。だから特段気にはならないのだけれど、彼女はそうではないらしい。
「そうじゃなくてさ。私はみんなの表情を見て会話がしたいの。だって高校は三年しかないんだよ。卒業してもマスクしている顔以外、思い出せないなんて、淋しいでしょ?」
「そういうものかな」
「そういうものなの」
疑問を呈すれば即座に言葉が返ってくる。僕は頬杖をついて文庫本を片手でぺらぺらとめくる。最近出たばかりのミステリー小説。レビューが高かったから購入を決めた。
「ねえ、それ面白い?」
「そこそこ」
「じゃあ読み終わったら交換ね」
そう言って彼女は自分が持っている書籍を持ち上げる。少し日焼けした表紙はペンネームこそ知っているけれど未読のものだった。たしか数年前に大きな賞を取ったものでSNSのタイムラインでトレンド入りしていた。
彼女はその表紙を愛おしそうに撫でる。僕はあくび交じりにその横顔を眺めていた。
「この作品のテーマはさ、自由とはなにかってところだと思うんだよね」
「自由、かあ」
「今の時代とは正反対だと思わない?」
「それはさすがに大げさだと思うけど」
自由の反対は不自由なのだろうか。いや、そうなのだろう。けれど果たして今の情勢は不自由なのか。ある程度の自由が保障されているこの国で、まったくの不自由というのもなんとなく想像しがたいものがあった。
「……そういえばさ、この前の課題、なんて書いた?」
また話題が変わる。彼女の癖なのだ。とりとめのない話を寄せては返す波のように行ったり来たりする。そんな他愛ない時間が僕は好きだ。
「課題ってなんだっけ」
「将来について。どんな職業に就きたいかって話」
「ああ、あったね。そういうの」
「手をつけてないの?」
「そっちだって手をつけてないんじゃないの?」
よく分かったね、と小さく肩を揺らす。黒いマッシュ・ボブがふんわりと揺れる。なんとなくで言ったものだったけれど図星だったようだ。
「そもそも将来ってさ、見えないもん」
「なんとなく見えてる人もいるんじゃない?」
「でもその道を真っ直ぐに歩けるかは分からないでしょ」
そりゃそうだ、と僕は首を鳴らす。正直に言えば安定した生活が保障された将来というものを望むけれど、本当に安定したものなんてこの世に存在するのか甚だ疑問である。
それこそ、今はウイルスが蔓延っているのだ。経済だって回っているのかいないのか、否、回ってはいるのだろうけれど、安定的な供給が出来るほどの余裕があるのか。僕には分からない。
それに、ウイルス云々を差し引いても、やはり完全で完璧な安定なんてものがあるなんて、僕には思えなかった。
「そっちはさ、将来どうしたいとかあるの?」
僕は何気なく彼女に話を振ってみる。マスク越しだが、笑っていることだけは分かる。そこで僕は気付いた。彼女が言う『モザイクがかかって見える』という言葉の意味を。
僕にとっても、彼女のもともとの顔がぼやけていた。このままマスク越しの彼女だけを覚えて、卒業していくのは寂しいものだと。きっとこのウイルスが去ったあとに再会したとして、僕は彼女の本当の顔を覚えていられるだろうか。
「私は――秘密」
「なんだよ、それ」
「知りたい?」
「……それなりに」
「ならさ」
彼女は小首をかしげて、文庫本をマスクの前にかざした。
「放課後、空けといて」
◇◆
放課後になって、中途半端な空の下で僕らは近くの海岸に来た。雨が降るかもといったものの彼女が行きたいと言ったのだ。
海に着くなり、彼女はローファーと靴下を脱いで波打ち際に走っていった。僕はそのあとに続いて、砂浜にそのまま腰を下ろす。
「気持ちいいよ。足つけないの?」
「僕はスカートじゃないからね」
「ふうん。まあ、いいけど」
そう言ってこちらに向かって波を蹴る。飛沫が散ってきて僕は思わず片手でそれを受けた。「濡れるだろ」と文句を言うが、彼女の楽しそうな表情を見れば、悪い心地はしなかった。マスク越しではあるけれど、彼女は楽しそうだった。
「――ね。私たちって」
どこへ向かえばいいのかな。
彼女はそう言った。先行き不安な不透明な時代。それはきっとウイルスにすべての問題があるとは思わない。きっといつの時代だって、僕のような人間はたくさんいただろう。中途半端で、どこにも行けない、人生の迷子が。
「でも、朝は決まってるみたいに言ってたじゃん」
少なくとも朝は秘密だと言った。それを知るために言われるがままここに来ているのだ。それは、彼女が迷子などではなくちゃんと道すじを知っているということだ。
その点、彼女と僕とは違うのだ。似た者同士でも決定的に違う部分はそこなのだろう。揺らめく波のような道を、彼女は見据えている。そんな気がした。
「決まってるよ。でもね、きっとこの世界で一番不安定な将来なんだ」
「大げさだなあ」
この世界で一番不安定な将来なら、そこいらに転がっているような気もしている。つまるところ一番不安定、という部分はありていに言えば『よくある思春期のころに思い描いた未来』だとも言えるのではないか。
曇り空の下で彼女は笑っている。けれど、それは目を細めているだけだ。彼女の本当の表情は今もぼやけたままだ。きっとこれから先も。
「それで? 君の将来ってなんなんだ?」
「私はね――」
彼女はマスクを外した。
風に乗ってマスクが波間に消えていき、彼女の本来の表情が見えた。僕は驚いて、思わず目を見開く。
ウイルスも世情も関係ない。
空虚なニューノーマルな世界で、悲しきマスカレードの世界で、彼女は素顔を晒した。
その表情は、僕らの道はなにものにも阻まれない。そう思えるほどの笑顔だった。そしてそんな僕を見て、彼女はしたり顔でこう言うのだった。
「――小説家になる。いつかうちのお父さんみたいに、大きな賞を取るのが夢なの」