赤【恋愛短編】
赤
「好きだよ」
普段伏し目がちで話をする彼女が、僕の目をまっすぐ見つめていった。その内に秘めた強さに圧倒されて、僕の方が目を逸らしてしまいそうだ。
彼女が転校して来て一ヶ月。人見知りな彼女が時折見せる、笑った時の八重歯が好きだった。時間としてはとても短いが、「優しい人間」だと認識する上では充分すぎるほどの間、その姿を見つめていたと思う。
その瞳の奥が再び大きく揺れたようだ。時間にすれば五秒足らずなのに、何故だかもうずっと長い間見つめ合ってるように思える。
僕は今にも泣き出してしまいそうな彼女に、そっと笑いかけた。
あれから再び一ヶ月の時が経つ。今日も彼女は、僕の隣でうれしそうに笑う。
その手にはトマトジュース。彼女はこれが大好きだ。でも本物のトマトは食べないと言う。
赤い唇を缶につけてごくりと飲み干す。その喉が小さく動くのを、僕はじっと見ていた。
最近彼女は少し痩せた。
元々嫌いなものが多いため、食べるという事さえろくにしない。
「お腹すかない? なにか食べる?」
そう聞くと、決まって僕の喉の辺りを見つめて「赤いもの」と応える。
トマトと赤ピーマン。そんなものしか僕は赤い食物を知らない。とりあえず赤と見たものをすべて買い込んで差し出したが、彼女はそれらを白く見つめた後、結局自ら自動販売機に向かった。
僕が好きになったのは優しい彼女。笑った時だけ、姿を見せる八重歯。なんだか遠い昔の事のように思える。
彼女は笑わなくなった。三ヶ月前よりガリガリに痩せて、骨と皮だけになった。
ある休日、僕は心配になって彼女の家に行ってみた。しかし玄関のドアを開けた瞬間、ぎょっとして、思わず足を止めてしまった。部屋の中は空き缶で埋め尽くされていた。
トマトトマトトマトトマトトマトトマトトマトトマトトマト
その空き缶のすべてに、同じ絵柄がついていた。
彼女はその奥にいた。その喉が小さく動く。「けふ」と空気を抜いた。僕は一声かけて、空き缶を踏まないようにそっと、その側に寄った。
はっと息を呑む。僕はそれまで気付かなかった。その肩が小刻みに震えている。そうして、口から赤が垂れていた。服にもそれが染みている。
その異臭に気付いた僕は、嫌がる彼女の口を無理やりこじ開けた。ぼたぼたっと赤が床にも落ちていく。
ない。
ないのだ。
僕が愛したはずの、あの二本の八重歯が。
僕の手を振り払うと、彼女は丸くなって小さく泣いた。
再び気付く。
缶にまぎれて鈍く光るペンチと、その間に挟まった小さな歯。もう一つ歯。
僕はなんとなく分かっていた。
分かっていながら信じようとしなかった。
焦点の合わない目で、僕は長い間缶の赤を見つめていた。