祖父と孫娘の戦い、3【エッセイ】
三
まず、墓参り。
「しほが来てくれたぞ」
「くれた」と言わせている段階で既に他人。身内なら「しほが来たぞ。ちょっと前見たときよりもソバカス増えてらぁ。さすが遺伝だな」これが正答。この二つのやりとりの差は頻度。十年に一度だから三千六百五十分の一日。現時点では真っ赤を越える他人だ。まずはこれをせめて三百六十五分の一日にする。
次に「これやるあれやる」の頻度を減らす。これはつまり「これだけしないと埋められない寂しさ」からの解放。そうしてこの事自体、単純接触で解決しうる。簡単だ。「もうやるもんねぇよ」状態まで追い込む。あるいは「この子よく会うし、そんなたいしたもんやらんでもいいか」と思うまで希少価値を下げる。大事なのはいかに日常に近づけるか。
そもそも今や友人だって月一で会うかどうか。こちとて祖父に不自然で多大な労力をかけるつもりはない。大事なのは日常に溶け込ませ、継続すること。同じことをくり返して、前提を構築し直す。
最後に奪ってきたものを返す。奪ってきたものとは自己肯定力だ。
我々は安全のため、周りのため、本人のために免許を奪う。あえて乱暴な言い方をしているが、やっていることはそうだ。ほぼ強奪だ。そのためにできることも一つ奪う。行けた場所を奪う。自由を制限する。それは同時に「してもらうこと」を増やすこと。これこそ軽んじてはいけない。与える側は「送ってあげるよ」と簡単に言うが、与えられる側は与える側の心証を無意識に推し量るようになる。そのことを常に念頭に置かなければいけない。
じゃあ奪ってしまったものを返すためにどうするか。答えは「聞くこと」クエスチョンだ。
「よく行く定食屋までの道が分からないから案内して欲しい」
ナビに頼ることはできる。しかし地元住民しか知らない道は必ずある。そういう道に限って目印になるものなんてなくて「三つ目の、停車禁止の白帯の線のあるカーブミラーを右折」とか「右折してしばらく走って一つ目の細い道を右折」とか、一度や二度じゃ絶対覚えられない。しかも会う頻度、その定食屋に行く頻度で考えれば年イチとかそういうレベルだ。前回教えてもらったことをそのまま記憶・・・・・・できたらスゴイよね! なんて勢い。だから
覚えられれば「自分が教えた」という自信になるし、覚えなくても「出来の悪い、かわいい孫に教える」という自分の存在価値が生まれる。どっちに転んでも間違いはない。
そう。全ては「してもらう」負い目をなくすため。共通の話題を生むため。
全ては幸せを共有するため。あなたと過ごす時間は楽しい、と。
大事なのはそれだけされる価値ある人間であることを自覚し直してもらうこと。
いずれにしても反復、継続こそが力なり。




