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病床問答

 それまで巧妙に世を渡り、栄華を極めた管仲が何故鮑叔の策略に手もなく絡めとられたのか、不思議と言えば不思議である。


 老境に差し掛かり時代に冠絶する知性もさすがに衰えたのか、富貴と名声を得て慢心していたのか。或いは己の大望をすべて果たし終え、己の余命に執着しなくなっていただけかもしれない。


 管仲を暗殺するに際し、鮑叔は毒を用いた。高氏、国氏には及ばぬまでも、鮑氏も古くから斉候に仕えてきた名家である。斉国の組織機構に属さず、鮑氏にのみ忠誠を誓い一族の都合で自由に動かせる間諜(かんちょう)や暗殺者を、代々配下に有してきた。そして父も鬼籍に入って久しく、今や鮑叔が名実共に鮑氏の当主である。彼らを動かすのに何らの障害もなかった。


 鮑叔は己が抱えるそのような部下の一人を、管仲邸の厨房に厨人(ちゅうじん)として潜り込ませた。諜報から情報操作、探索、暗殺に至るまで、陽の当たらぬあらゆる仕事を遺漏なくこなせる、重宝な男だった。周囲に怪しまれぬよう、架空の身元も用意してその保証も与えた。もちろん何人もの有力者を間に介して、決して鮑叔自身の名前が表に出ないように計らった。


 有力者の保証付きのその男を、管仲宅の家令は容易に受け入れた。丁度厨人の一人が高齢で働けなくなり、人手が欲しかったようだ。


 鮑叔の刺客である男は半年間懸命に働き、厨房での評価を得た。膳に添える重要な(あつもの)の管理も任されるようになった。


 男は厨房内に空気のように溶け込んでいた。やがて館の主たる管仲に出される羹の器に、時折男が白い粉を人目を憚りながら混入させだしても、誰も気がつくものは現れなかった。


鮑叔の刺客が用いた毒は、現代でいうヒ素化合物の一種だったと思われる。古代中国では既に、ヒ素の存在自体は認知されていた。儒教の古典的経書である『周礼(しゅらい)』の中には"五毒"と呼ばれる五つの毒物-雄黄(ゆうおう)礜石(よせき)石膽(せきたん)丹砂(たんしゃ)慈石(じせき)についての記載があるが、この内雄黄はヒ素硫化物、礜石は硫砒(りゅうひ)鉄鉱のことである。


 また酖毒(ちんどく)という、中国の史書に度々登場する伝説的な毒がある。暗殺などに頻繁に用いられたとされ、(ちん)という伝説上の鳥の羽から採取されると言われるが、これもヒ素化合物の一種だったのではないかという見方もある。人体を害する効力を有しながら無味無臭という、極めて凶悪な代物であったらしい。


酖毒はその存在自体が些か眉唾ものの趣がないではないが、いずれにしろ春秋時代の刺客が対象を葬る手段としてヒ素を用いたと想起するのに、さして無理はないだろう。


 管仲の身体は少しずつ弱り始めた。食物を受け付けなくなり、手足が痙攣し出し、やがては床から起き上がれなくなった。


 朝廷にも出仕できず、当然政務を取り仕切ることもできない。


 この管仲の弱体化に疑念を挟む者は誰もいなかった。刺客の男が巧妙だったこともあるが、斉の柱石たる宰相も最早八十を過ぎた老齢である。いつ天から迎えがきてもおかしくない、と常々思われていたのだ。


 しかし桓公にとっては、頼みとする宰相が伏してしまったのは痛恨事である。愁眉を称え管仲宅を見舞ったが、床についた管仲を一目みて衝撃を受けた。蒼白い相貌は、明らかな死相だったのだ。


 桓公は一瞬瞑目し、覚悟を決めた。


 床の横に腰を降ろすと、弱々しく己を見つめる管仲に問いかけた。


「仲父亡き後、斉は誰を宰相に据えるべきだろう」


 死の淵に立つ老人に、己亡き後の後任を尋ねるのである。冷酷なようだが、国主としては国の行く末を第一に考えなければならない。


「やはり、鮑叔が適任であろうか」


 管仲には及ばないまでも、桓公の中で鮑叔への信頼は依然厚かった。或いはかつての約束が、心のどこかに棘として刺さっていたのかもしれない。


「鮑叔は清廉無私の男です。それは素晴らしいことですが、同時に頑なでもあります。己の価値観に沿わない人物は決して受け入れようとしません。また潔癖であるが故に、一度誤った者を許す心がありません。小さな瑕疵で大器を手放してしまう恐れがある、宰相には向かない男です」


それが管仲の奉答だった。


 桓公は須臾(しゅゆ)の間眉をひそめたが、程なく納得の表情を造った。元より管仲への信頼は絶大であり、また管仲の言い分が理に適っていることも認めたのである。確かに鮑叔には、指摘されたような短所がある。


「仲父、そなたと鮑叔は無二の朋友であるにも関わらず、私情を挟まず公人として予の盲を指摘してくれた。そなたこそ忠臣の鏡よ」


 桓公は感動し、目に涙を浮かべた。


 管仲と鮑叔、それぞれの内奥を深く疑う必要性を、彼は遂に覚えることがなかった。


 その後、宰相の後継者とすべき候補の者を桓公は何人か挙げたが、いずれも管仲に退けられた。


「それでは、誰が適任だとそなたは思うか?」


 桓公にそう問われ、掠れた声で管仲が挙げた名前は”隰朋(しゅうほう)”であった。彼も桓公を補翼する、斉の中枢の一員である。


「隰朋は賢人ですが、その才を鼻にかけることなく下々の者たちにも分け隔てなく接することができます。彼の謙虚で鷹揚な性格は多くの者に親しまれるでしょう。また鮑叔のような潔癖の弊もなく、大事の為に小事を見て見ぬふりをすることができます。国政を総攬(そうらん)する者は、そうでなくてはなりません」


 桓公はこの言を容れた。管仲の後継となる宰相を、隰朋に定めた。


 病床の管仲によって、鮑叔の道が閉ざされたと言える。

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