鬼才飛翔
管仲は許され、斉の行政をその手に担うこととなった。
桓公の目論見通り、鮑叔が己の地位と引き換えに管仲を推挙した、という態を整えたことで、この人事に異を唱えるものはほとんど現れなかった。
「君が斉のみを治めて良しとなさるなら私と高傒の補佐のみで十分に足りましょうが、天下に覇を唱えんとお望みであれば是が非でも管夷吾の力が必要になりましょう」
話に尾ひれがつき、いつの間にか鮑叔が桓公に上記のように言上したという噂がまことしやかに語られだした。
鮑叔の声望は高まった。我欲のない、謙譲の美徳を備えた名士としての声望である。
思惑が適ったと言ってよいはずだったが、鮑叔の内心の暗雲が晴れることはなく、いよいよ重く立ち込めて行くようであった。
管仲の人事が受け入れられたもうひとつの理由は、本人の力量である。
こと行政官としては、管仲はまぎれもない天才であった。
斉の政治を司る権限を与えられるや管仲は税制を改革し、また当時としては画期的な物価調整をも行い、民の暮らしを安定させるとともに労働意欲を高めた。元々斉の主要産業であった漁業・製塩業に更に力を注いで発展させ、また塩を国家の専売として他国に売り捌くことで財政を盤石なものとした。商業を奨励し物資の流通を促進した結果、臨淄には他国から多くの人々が流入した。それらの人々の中から賢能の士をみつけては身分を問わず取り立て、人材面の充実にも成功する。
またそのような経済的充実を背景として軍制改革にも着手する。民衆の一家から一人、兵士を供出させ、五家を一軌、十軌を一里、四里を一連、十連を一郷、そして五郷で一軍、と軍団の単位を定めた。つまり一軍とは一万人のことである。
そして国全体では三軍―三万の兵を要することに成功する。それらの兵士は整えられた軍制により、以前よりも遥かに能動的で連携に優れた、精強な軍団に変貌していた。管仲は理想的な“富国強兵”に成功したわけである。
こうして経済力と軍事力を身に着けた斉は、じき周辺の小国を併呑にかかった。この一連の征旅により斉が征服した国は、三十以上にも及んだ。領土と人口はたちまち膨張し、斉は自他ともに認める中華諸侯中随一の強国と化した。
また、その軍事力を駆使して中原への侵入を画策した異民族を何度も撃退したことで、他の諸侯の信望も得た。
そして桓公の七年、甄という地で諸侯を招き、会盟を主催する。
春秋時代、諸侯が集う会盟を主催する国と国主こそが、中華を牽引する覇者と目されていた。即ちこの時、甄の地において、桓公は諸侯中の覇者となったと言ってよい。
以後桓公は諸侯を牽引する覇者として中華を主導し、“春秋五覇”の筆頭として史上に不滅の名を遺すことになるのである。
後世に於いても当時に於いても、この壮挙には管仲の功績が大と目されているのはいうまでもない。
管仲は桓公に許されて後、その宰相を勤めること四十年、その間斉は絶えず強国であり続けた。桓公主催による会盟は九度に及び、なかでも在位三十五年目に行った葵丘での会盟では魯、宋、衛等の諸侯がまみえたのに加えて周王室より王の使者が派遣され、多種の貴重な品が桓公に下賜された。
春秋時代、王朝としての周は依然存続している。その威光は衰えたとはいえ、諸侯は名目上は周に仕える臣下であった。その周王室が会盟に使者を派遣したことは己の代理として斉が中華を統率することを認めたに等しく、これによって桓公の覇者としての立場が盤石になったという見方もある。まさに桓公の威勢絶頂の時であろう。
更に。堂を降りて使者を迎えようとした桓公に、使者は「降下しての拝礼は不要」という周王の言伝を述べた。これは異例の厚遇と言える。くどいようだが、形式的には周王は未だ諸侯の主君なのだ。主君の代理を務める者を拝礼を以て迎えるのは、臣下としては当然の義務であろう。周王室がいかに当時の桓公を畏怖していたかが伺える逸話である。
桓公は気をよくして言われたとおり堂上で待とうとしたが、管仲がそれを諫めた。王の言葉に甘えず、慣例を守るべきであるというわけである。桓公は諫言をいれ、堂を降りて使者に拝礼を施した。
ここにみられるように桓公には生来気質に驕慢なところがあり、管仲はその気質の発露を抑え主君を正道に導くという役割もつとめた。礼を疎かにし傲岸不遜な振舞いが目立っては諸侯の信望を失い覇者としての基盤がぐらつく、と考えてのことであろう。
このように管仲は有能な行政官としてのみならず優れた教導者としても、大所高所から覇者桓公を支えた。幾星霜の後に"中国史上最高の宰相"の令名を得る所以である。
鮑叔は青磁の杯に酒を満たし、呷った。
床には空になった酒壺が既に三口も転がっていたが、一向に酔いが回ってこなかった。
胸に燻る怒りにまかせ、手にした杯を壁に叩きつける。割れた音を聞きつけた従僕が慌てて部屋に飛び込んできたが、怒鳴って追い返した。
桓公に登用されてからの管仲は、水を得た魚のようだった。政治にも軍事にも改革を次々施し、瞬く間に斉の国力を成長させた。
最初は管仲の登用に難色を示していた者たちも、その実績の前に間もなく口を噤んだ。桓公はいつの間にか管仲のことを“仲父”と呼ぶようになり、その信頼は絶大である。かつて「いつか必ず宰相の座に復権させる」と約束されていた鮑叔だが、最近の桓公はその件を口の端にものぼせなくなった。最早管仲を政治の中心から降ろす意思がないのは火をみるよりも明らかである。
鮑叔の管仲に対する憎悪は、常軌を逸しつつあった。己が得るはずだった能臣としての栄光も主君の信頼も、管仲一人に横からかすめ取られてしまった、と思わずにおれない。
管仲は能吏としてだけではなく、その人品をも高く評価されるようになった。かつて周の襄王が、夷狄と結んだ弟に背かれ窮地に立たされた時、斉から派遣された管仲が尽力してこれを鎮めたことがあった。襄王は感激して、謁見に訪れた管仲に上卿の待遇を与えてもてなそうとしたが、管仲はこの好意を辞退した。
「私は斉に仕える者、周王からご覧になれば陪臣の身です。そのような卑しき者が上卿の礼遇を頂戴するわけには参りません」
そう述べ、襄王の再三の勧めにも遂に応じず、自ら下卿の待遇に甘んじたということだった。
この管仲の謙虚で分を弁えた態度は大いに評判を呼び、名宰相の名が一層高まることとなった。
恰好をつけただけだ、と鮑叔は思う。管仲はどう振舞えば己が君子に見えるか計算し、狡猾にその像を演じているだけだと確信している。この確信に思いをめぐらす時、彼は自分のことを完全に棚に上げている。
現に管仲は豪壮な邸宅を臨淄に三軒も所有し、毎夜の如く饗宴を開くという奢侈な生活に明け暮れている。暮らしぶりの派手なこと、桓公を遥かにしのぐといわれている。それほどの驕慢を露呈しているというのに、咎める者は誰もいない。皆管仲の功績と名声に幻惑されているとしか思えない。
このままでは斉は管仲に乗っ取られてしまう。酒に濁った眼をぎらつかせながら、鮑叔は切迫した危惧を覚えた。この時既に鮑叔からは正常な判断力が失われていた。管仲憎しのあまり、どうしても管仲を巨悪にしなければ気が済まない心理に陥っていた。
「管仲を暗殺しなければならない」
壺ごと酒を呷りながら、鮑叔は決意を固めた。
この決意は朝を迎え、酒が抜けても鮑叔の胸から消えることはなかった。彼の中ではそれはどこまでも斉を奸臣から救い出す為の、正義の壮挙だったのである。