暗転落日
「か、管仲を我が君の臣に、でございますか!?」
「そうじゃ」
「な、何故そのような…」
「何も卿の朋友だから特別に計らおうというわけではない。政に私情は挟まぬ。しかし管夷吾の異才、このまま無為に失うにはあまりに惜しい。卿もいつも、誉めそやしていたではないか」
確かに鮑叔は、普段から管仲の才能を称賛していた。もちろん本心ではない。ただ周囲に、上辺だけの“称揚の言葉”を振りまいていたに過ぎない。
文官としての管仲の評価を耳にする度に、湧き上がる瞋恚に心を焼いていた。認めたくはないが、そこには嫉妬の成分も多分に含まれていただろう。
しかしそんな醜い真情を表に出しては“仁徳の士”として通っている己の体面を傷つけることにしかならない。それで事あるごとに、長年の親友の出世を喜ぶような外面を取り繕い、それに合わせて管仲がいかに優れているかを吹聴してまわった。友人の手柄を嫉視せず、我が事のように喜びその才知を称えて惜しまない―そのような己の像を、内心歯ぎしりしながらも必死に演じ続けてきたのだった。
その労苦が、よもやこのような形で己の仇になろうとは!
「まだまだ我が国の情勢は収まったとは言い難い。依然わしの治世に批判的な大夫も多く、魯をはじめ諸外国も我らが足元の固まらぬ内にいつまた兵を向けてくるか知れたものではない。危急の時なればこそ、一人でも多くの有為な人材が欲しいのだ。普段卿があそこまで高く評価している管夷吾なれば、その手腕に間違いはあるまい」
まさか桓公が、それほど自分の管仲への称賛を真に受けているとは思わなかった。或いは信頼の裏返しと言えるかもしれないが、最早怨敵と呼んでも過言ではない管仲を屠れる千載一遇の好機、それを自ら不意にしてしまったようなものではないか…
いや、まだだ。鮑叔は尚も食い下がった。
「確かに管仲の異才、貴重この上なく存じます。しかし彼の者は逆賊、それも一度は我が君に矢を射かけ、そのお命を危うく致しました。よもやお忘れではございますまい」
「そのようなこと、わしは一顧だにせぬ。彼の主君である糾とわしは政敵同士だった。当時の彼の立場からすれば、わしの一命を狙うは至極当然だと思う。それにだ…」
不意に桓公は語調を改めた。二人しかいないはずの部屋の中で、尚も声は密やかなものとなる。
「夷吾はどうやら本気でわしを撃つつもりはなかったらしい。それどころか、わしを危地から救ったのは外ならぬ管夷吾の助言なのだ」
桓公の言うことがいよいよわからなくなってきた。我が君は正気なのだろうか、と鮑叔は敬愛する主君にこれまで抱いたことのないような疑念を覚えた。敵である管仲が、桓公―当時の小白に助言を与え危地から救う?そんな馬鹿な話があるだろうか。
「夷吾が射てきた一矢には、このようなものが結ばれていたのだ」
そう言って桓公が部屋の隅の机に置かれた小箱の中から取り出したのは、ひときれの絹地であった。汚れてはいるがどうやら身分の高い者の衣服、又はその元となる反物から切り取った一片であるらしい。
そしてその表面には、墨で書かれたと思しき文字が浮き出ていた。
この時代の文字は、現代の我々が使用している漢字とは異なる。“金文体”と呼ばれる古代文字である。
絹地の表面の文字も当然その金文体で記されているのだが、そこに書かれたものを現代の漢字に変換すると次のようになる。
詐 死
「これは…」
鮑叔の眼に、二文字が焼き付いた。あまりに意想外の事態に、それらに伴う意味が追い付いて己の中にしみ込むまで、多少の時差を要した。
詐リテ死セ…死を偽装せよ。
公子糾との権力闘争で莒より臨淄に急ぐ最中、桓公―当時は公子小白―は待ち伏せた管仲の攻勢により、命が危うくなった。管仲の放った一本の矢が小白の帯鉤を直撃するという一幕もあった。この時幸いにも無傷で済んだ小白だが咄嗟に計り、さも矢で腹部を貫かれたかのように振舞った。佯死を試みたのである。
計略は見事に成功した。
…以上が、鮑叔が信じていた小白が斉にたどり着くまでの顛末である。管仲の襲撃があった時、彼は迎撃部隊を指揮する為一時的に小白の傍を離れていた。従って帯鉤に矢を受けた場面に、直に立ち会ってはいない。前線から戻り主の訃報が虚偽と知って以後は、積極的に偽装に協力し、見事窮地を切り抜けた。今まで咄嗟に佯死を計ったのは小白の独創だと、信じて疑わなかったのだが…
「あの乱戦の中、わしは夷吾の矢に撃たれた。矢は帯鉤に突き立ちわしは一命を拾ったが、もんどり打った衝撃でしばらく起き上がれなんだ。倒れたまま、近くにいた従者が慌てて引き抜いた矢に目を向けると、矢幹にこの絹切れが巻き付いていたのだ。わしは気になり、従者から絹切れを受け取り広げてみた。そしてこの書かれた二文字を読み、管夷吾がわしに“死んだように見せかけてこの場を逃れよ”と助言してくれたのだと知った。魯の兵に囲まれ、大っぴらにこちらの便宜を図るわけにもいかず、苦し紛れの策だったのだろうが、とにかく夷吾はわしに味方してくれたのだ。わしは彼の助言通り、彼の放った矢に射られ死んだように装った…」
桓公の述懐は、鮑叔の耳には雷鳴のように轟いた。それでは管仲は敵陣にいながら、本当に桓公―小白に味方してみせたというのか。管仲自身の奇襲により、小白の命はあの時風前の灯だった。その状況下で尚も趨勢小白にありと読み切り、糾を見限って恩を施したというのか。確かに射られた矢が帯鉤に刺さって止まるなど奇跡に等しく、それを思えば神威は小白にあったと言えるかもしれない。しかしそのようなこと、人の身が予め推察し得るはずもない。管仲が人智を超えた慧眼で未来を見通したとでもいうのか?馬鹿な!
だが現に管仲は今、あの折放った矢に巻いた絹切れのために、十中八九落とすはずだった命を拾おうとしているのだ。そもそも管仲が小白に佯死の計を授けなければ小白は逃げ切れなかったかもしれず、その意味では自らの首を絞めたうらみがなくもないが…それでもしぶとさと悪運もここまでくれば、怖気を覚えずにはいられない。
「その後は臨淄への強行軍となり、到着したら息をつく間もなく魯軍が攻めてきた。慌ただしさの中で、事の次第を説明する機を逃してしまったのだ。この事実-わしの佯死が管夷吾の発案であると知る者は、わしとあの時傍にいた近侍達だけだろう。卿にだけでも伝えておきたかったが、遂に今日まで言いそびれてしまった。許せ」
「し、しかし、その矢があと少しでもずれていたら、君は本当に死んでいたのですぞ!そもそもあの乱戦の中、帯鉤のような小さな的を狙おうと思って狙えるはずもない。管仲が御身に狙いを定め弑そうとしたのはまぎれもない事実!」
「あの乱戦の中なれば、手元が狂い偶々わしの方向に矢が飛んでしまったということもあろう。それに先ほども言うたが本来は敵味方の間柄、あの時夷吾がわしを狙うのも立場上当然のことなれば恨む筋合いもない。それよりも彼は絹切れ一枚でわしに知恵を授け、あの窮地より救ってくれた。その功をこそ重んじたいと思う」
さすが後の世で”春秋五覇”の一人に挙げられる名君というべきか、桓公の度量は並外れたものがあった。一度自分を殺しかけた人間を部下として登用しようと欲するなど、なるほど尋常な胆力ではない。
鮑叔も主君の器の大きさについては常々弁えていたつもりだったが、これ程とは測りきれなかったのだ。余の場合であれば誇らしさに胸を震わせたかもしれないが、この時ばかりはその放胆さが恨めしくさえ思えた。
そして些か軽率でもあるだろう。まだまだ理によって桓公を思いとどまらせる余地はある。鮑叔は、内心で自分に言い聞かせていた。
「我が君のお心映え真に尊く、また管仲を許すばかりかそこまで重んじてくださること、朋友として御礼を申し上げます。しかしながらいかな思惑があろうとも君に弓引き、こともあろうにその御命を危うくしたものをそのように厚遇なさるというのは、その、私めはともかく、他の大夫達は承服すまいかと…」
いかに英邁といえど、桓公はまだ若い主君である。必然的に年齢と経験を重ねた臣下の協力が必要だし、彼らの意見を無下にするわけにはいかない。そしてそのような年輩者達ほど、主君殺害未遂を犯した逆臣を登用するなどという常識外れの構想には反発するはずである。
その者が信用できない、いつ主君や自分たちの寝首をかくか知れたものではないというのがひとつ。また自分たちの地位を新参の若輩に奪われる危惧、嫉視に依るところも大きいだろう。
鮑叔とて家臣団の中では未だ少壮の側であり、普段はそれ程近しい間柄でもない老臣達だが、この際は彼が最も頼れるのはそれらの人々のはずだった。
「そう、わしもそう思う。故に、余人に向けてはこの管夷吾の助命と件は卿の発案ということにしてもらいたいのだ」
しかしここでの桓公の返答は、あまりにも意想外なものであった。
一瞬、鮑叔は言うべきことばを失った。
「なんと…わ、私めが!?」
「若輩で頭に血が上りやすいわしは、あわや己の命を奪おうとした管仲が許せぬ。恨みにまかせて処刑しようとする。それを卿が諫める。管仲は稀代の大才、わしがこの後天下に名を轟かそうと思えば、必ず彼の者を用いねばならない…そう説得され、渋々わしは同意するのだ。この筋書きなら、誰もが納得しよう」
「お、お待ちください!管仲は私めの朋友、皆がそれを知っております(甚だしい誤解ではあるが!)。私が助命を請い彼の者を推挙すれば、それこそ私情にまかせたとみられ、皆の反感は一層増しましょう」
「何、卿は己の世評を知らぬな。卿が仁義厚く公明正大な人物であることは今や斉の万人が知る処だ。管夷吾を推挙したとて、それ斉の社稷を思わんが為と皆得心するだろうよ。そのうえで、だ…」
桓公は口ごもった。言いにくいことを言わねばならない者特有の、躊躇いと倦怠がその表情に現れた。鮑叔は嫌な予感がした。
「卿がこう進言したとなれば、万に一つも異議の出てくることはあるまい。”管仲を大夫とし、己に変わり斉の国政を任すべし“、と…」
鮑叔の視界が暗転した。地面が崩れ落ちるような錯覚を覚え、よろめく。
この当時、斉の人臣の頂点である上卿の地位は、名門の高氏・国氏により占められていた。しかし実際に斉の国政を取り仕切っているのは、桓公の懐にいながら補佐している鮑叔である。鮑叔には己の才知が斉を支えているのだ、という自負があった。
桓公の言はその国政の中心たる役割を、管仲に譲れということに他ならない。そして己は管仲の部下として、彼の輔弼に回されることとなるだろう…
桓公が己に向ける信頼とは、その程度のものだったのだろうか。これまで傅として、主が幼少の時分より全霊をかけて尽くしてきたつもりであるのに。心底情けなく、涙がこぼれそうになった。
「もちろん、これは一時の方便だ」
桓公が、慌てたように付け加えた。
「わしの卿への信頼は揺るぎない。これまでも幾度もその才知に救われた。いずれはこの斉を支える柱石になってもらいたいと思っている。しかし、今この状況で管夷吾を無事我が帷幕に迎えるためには、このくらいしてみせねばならぬと思うのだ」
無理な要求である。いかに主君と臣下の間柄とはいえ、限度というものがある。そのような無茶を桓公が口にできたのも管仲と鮑叔の友誼を心底信じればこそ、また幼少期より昵狎した傅への親しみと気安さがあればこそだったろう。
桓公は鮑叔の間近まで迫り、その手をしかと握った。
「夷吾の立場が安定したら、必ず卿を復位させる。朋友のため、一時の恥辱に耐えてくれぬか?幼少期よりの朋友を救うことは、卿の本意にも適うと思うのだが」
「…もちろんでございます」
鮑叔の声は、絞り出すようであった。
桓公はそれを、感極まって言葉がつまったと解釈した。
「我が朋友管仲の為、我が君がそこまでお心を砕いてくださり、感謝の申し上げようもございませぬ。朋友の命と斉の未来の為、な、何故私一人が地位に恋々と致しましょう。どうぞ君の良きよう、お計らいくださいますよう…」
“仁の人”を以て鳴る鮑叔としては、そう応えるしかなかった。
一言を発する毎に、血を吐くような思いである。これまで心の奥底を隠し、管仲を無二の親友と吹聴し続けてきた己を、いっそ呪いたい気分だった。
「おお、卿なら分かってくれると信じていたぞ」
満面の笑みを浮かべる主の顔を見つめながら、最早己の命運は尽きたのではないか、という暗い予感が鮑叔の胸の中に渦巻いていた。
自然界と違い、人の住まう俗世において、一度沈んだ日は二度と昇らないのではあるまいか…