鮑叔驚倒
忌々しいのは、周囲からは鮑叔と管仲は幼い頃より昵狎した親友同士だと思われていることである。
そのような風評を耳にする度に、「冗談ではない!」と叫びたくなる。
確かに幼少期から関わりはあったし、若い頃は共に賈まで営んだ。しかしそれらの交流を、自分から望んだことなどただの一度としてないのだ。いつも良いように利用され、煮え湯を飲まされてきた。友誼など感じる余地は、どこにもなかった。
しかしその鬱憤を、大声でぶちまけるわけにはいかなかった。彼は主君や同僚の大夫達からは、"仁義の人"と目されていた。誠実で公正無私、常に心を乱すことなく、ただ国と主に忠誠を尽くすのみ。そんな自身の像を、長年苦心して作り上げてきたのである。
鮑叔は己が容量の悪い質であることを自覚していた。管仲のせいで幼少期から、嫌という程思い知らされてきた。能力で劣る自分が信望を得るには、人格者となるしかないではないか。我を抑え、穏やかに振る舞い、気に入らぬ人間にも礼節を尽くす。勿論主の為となれば、身を粉にしてどんな困難な役目も厭わない。血を吐く思いで築き上げた現在の評判は、非才な己にとってはまさに生命線であると認識していた。
そんな仁義あつい人間が、幼少期から何かと行動を共にする"朋友"を悪し様に言うことなどできるはずがない。人望を失い、それまでの苦心が水泡に帰してしまう。「卿と管仲殿は無二の朋友であられるとか」と余人に問われる度頷きを返し、その昇進・栄達の報に触れては本心を圧殺して我が事のように喜んでみせた。
管仲と鮑叔が固い絆で結ばれているという風聞はそのようにして鮑叔自身が定着させた側面もあるので、その点で誰を責めるわけにもいかない。だからこそ一層剛腹なのだ。
管仲を曲阜で捕らえ臨淄に凱旋して後も、鮑叔の心中を慮った同情の声が後を絶たなかった。主命とはいえ親友を縛さねばならぬ任務、さぞご痛恨でしょう。管仲殿の処罰は最早免れぬかと存じるが、どうか気を落とさぬように。助命嘆願はされるのですか。
鮑叔はそのような言葉をかけられるたび、空涙を流すのに苦労した。その一方、主桓公に拝謁し帰投の挨拶と遠征経過の報告を済ませると、国境を越え引きずってきた管仲を、何の躊躇いもなく早急に石牢へ放り込んでしまった。もうすぐ管仲の落命を以ってこの腐れ縁にも終止符が打てると思えば、朋友の"ふり"を演じるのも今だけは痛快というものである。
鮑叔が桓公から内密の呼び出しを受けたのは、臨淄に到着してから三日目のことだった。
「叔よ」
主君に字を呼ばれて、鮑叔は居住まいを正し拝礼した。桓公の私室だった。質実だが品の良い調度類が、国主の威風を醸し出している。
鮑叔は姓が鮑で名-諱を牙といい、叔は字にあたる。主君である桓公は「牙」と諱を呼び捨てても構わないはずだが、敢えて字で呼ぶのは幼少時より傅として己を導いてきた鮑叔への敬意のあらわれに他ならない。
「先だっても報告を聞いたが、管夷吾の件は卿にもさぞ心痛であろう。彼の者と卿は幼少の頃よりの朋輩と聞いている。我が兄に加担したとはいえ、辛い役目を負わせてしまったな」
桓公は神妙に鮑叔へと語りかけた。”夷吾”というのは管仲の諱で、こちらも仲の方が字である。
「かたじけなきお言葉でございます。なれど公事の前の私事でございますれば、どうぞお忘れくださいますよう」
「曲阜からの帰路、夷吾の縛を説き賓客として遇していたそうだな」
「捕縛した叛逆者に対して僭越な措置を講じましたこと、申し開きの仕様もございませぬ」
鮑叔は片膝をつき、拱手した両腕を突き出しながら深く頭を下げた。
曲阜から管仲を移送してきた鮑叔は、臨淄近くの堂阜という地までくると、管仲の縄を解いた。そして陣中の賓客として饗応するよう、配下に指示したのである。
「臨淄に戻ればおそらく管仲の処刑は免れないであろう。死にゆく朋友をいつまでも辱めるなど、やはり私には忍びない。魯の眼があるうちは縛を解くのも憚られたが、ここまでくれば彼の国に知られることもあるまい。短い間ではあるがせめて最後に礼を尽くし、人心地をついてもらいたいのだ」
涙混じりにそう訴えて、配下の者たちを説得した。
無論演技である。管仲がいつまで縛られていようと、鮑叔の心は一向に痛まぬ。しかしその状態を放置していては、”仁徳の士”としての名声に傷がつくのではないかと懸念したのだ。逆に死にゆく朋友に最後の憐憫をかけるという態度を示せば、自分の人品は増々高い評判を得るに違いない。そう判断し、内心の嫌気を抑えつつ管仲の待遇改善を指示したというわけである。
実際、彼に説得された将帥や士卒達は皆感に堪えぬ表情で同意してくれた。このようなわけで管仲は堂阜から臨淄までの短い期間、賓客として遇された。
その後臨淄に到着するや鮑叔は管仲を早速石牢に放り込んだのだが、そちらこそが彼の本心からの行動だと気づいた者はいなかった。元々叛逆者に対しては当然の措置ということもある。
今も主に頭を下げながら、己の行いは決して桓公に悪感情を抱かせないだろうと内心見積もっていた。幼少期から仕えてきた主の気性はよく弁えている。如何に管仲が憎い仇と言えど、臣下の惻隠の情を無下にするような御方ではあるまい。
「咎めているのではない。寧ろそれでこそ我が傅、鮑叔よ。そなたの朋友への慈悲、感じ入ったぞ」
予想通りの主の返答に鮑叔は一層深く首を垂れ、しばしその姿勢を続けた。一つには面を桓公の眼から隠す為でもあった。桓公の反応と大度に満足する一方、やはり我が君も余人達の如く自分と管仲が親友同士だと信じているのか、と考えるとどうにも面白くない。自らそう仕向けておいて勝手なことだが、どうしても憤懣が表情に出てしまいそうになるのだった。
「鮑叔、いかがした?」
中々顔をあげない鮑叔に、桓公は気づかわしげに声をかけた。鮑叔は急いで“平静”の相に無理やり整え、主君に面を向けた。
「いえ、何でも…失礼を致しました」
「卿の思うところは理解しているつもりだ。朋友の身を案じ、悲嘆に胸を詰まらせたのだな」
桓公は己の傅が固まった要因を、真逆に捉えたらしい。勘違いを正すわけにもいかず、鮑叔はただ黙然と会釈した。
「のう叔よ。卿のその愁眉、今ここで開けるやもしれぬぞ」
「は、それはどういう…」
「安心するがよい、わしは管夷吾を処罰しようとは思っておらぬ」
「は…?」
「寧ろ彼の者を斉の臣として迎え、わしの下でその才を存分に振るってもらおうと思うのだ。どうじゃ、良い考えではないか?」
鮑叔は己が耳を疑った。桓公は…わが主は、一体何と言ったのだ!?