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桓公登極

 襄公は暴戻(ぼうれい)の君主だった。己の感情を制御することができなかった。統治者としての責務を顧みず日夜悦楽に耽り、気に入らぬ者は容赦なく罰し誅殺した。群臣は皆恐れ、萎縮した。


 また彼は魯の桓公(斉の桓公とは別人)に嫁いだ実の妹、文姜(ぶんきょう)に恋慕の情を重ねていた。文姜が夫を連れて物見遊山がてらに斉に帰郷した折、半ば公然と実の妹の元を訪ね、密通したのである。


 紛らわしいのでここでは文姜の夫の桓公を単に魯侯と呼ぶが、魯侯は襄公の所業に気づき、当然ながら激怒した。息も荒く襄公を罵った処、気分を害した襄公は、こともあろうに魯侯を殺害してしまった。自国に招いた他国の君主を、である。その後も平然と文姜との逢瀬を重ねていたというのだから、やはり襄公はどこか常軌を逸していたと言わねばなるまい。


 人々は襄公を人倫にもとる君主とみるようになり、諸外国からの信用も失った。そうなれば国は乱れる一途である。襄公の勘気を被ればたちまち処刑されるとあり、諫言(かんげん)を呈す臣下もいない。政は滞り、民は困窮した。


 糾と小白も襄公を恐れた。斉侯の弟である彼らは、当然侯位継承権を有している。自制を知らない襄公がいつ己の地位に近すぎる、或いは己の立場を脅かすかもしれない弟を疎ましく思い誅殺せんと欲するか、知れたものではないのだ。


 二人の公子は斉より出奔する決意を固めた。無論小白の傅である鮑叔、糾の傅である管仲と召忽も主と行を共にする。故郷を捨て他国へ亡命する準備を進めながら、鮑叔の胸の内は寧ろ高揚していた。これは好機だ。襄公が敷くような無道な統治がいつまでも続くわけがない。今にきっとその治世は破綻を来す。その時、小白が斉へと戻り国人の心を掌握できれば、彼にも国主の座につく機会があるのではないか!


 僖公の男児達は、皆それぞれ生母が異なっている。糾が亡命先に選んだのは生母の故郷である魯国だった。一方、小白の母は(えい)の公女だった。小白にとって衛は親戚筋なら、亡命先として頼るなら最も無難な選択肢だったと言える。しかし彼は衛には行かず、代わりに(きょ)を亡命先に選んだ。莒とは斉の南方に位置する小国である。小白にはそれまで、縁もゆかりもない土地だった。


 これは鮑叔の進言だった。衛は西方の遠国で、そこから臨淄に戻ろうと思えば黄河(こうが)済水(せいすい)を渡らねばならない。かたや莒は臨淄から二十日足らずで辿り着ける距離で、一朝事あらば即座に馳せ参じることが可能な位置といえた。何より魯の首邑・曲阜よりも臨淄に近いのが良い。この時既に鮑叔は糾とその謀臣・管仲がいずれ小白登極の障碍(しょうがい)になるだろうと見越していた。彼らより少しでも、斉の中心近くに身を置かなくてはならない。それは煮えたぎるような管仲への対抗心がもたらした直観であったかもしれない。


 莒では小白は冷遇され、辛酸の日々を送った。だがこの選択が、後に小白に侯位をもたらすことになった。


 一方、亡き僖公の弟の子に、公孫無知(こうそんむち)という者がいた。襄公達からは従兄弟にあたる。


 僖公は存命時公孫無知を大変可愛がり、自分の公子らと同等に扱っていた。しかし僖公が没し襄公が即位すると、無知の厚遇を取りやめ、その俸禄も官位も引き下げた。当然、無知は襄公を憎んだ。


 元々人心を得ていない襄公である。彼に恨みを抱く者は幾らでもいた。


 無知は、襄公に約束を反故にされた為に辺境の任に縛られ、臨淄に戻れず鬱々としていた連称(れんしょう)菅至父(かんしほ)という大夫達に目をつけた。二人を己の同志に取り込み、襄公への叛逆を企てたのである。


 ある時、襄公は狩猟に出かけたがそこで怪我を負い、様態芳しからぬ状態のまま公宮に戻った。叛逆者達はその情報を得ると好機と捉え、即座に公宮を襲撃した。ふいを突かれた襄公には対処の術がなかった。慌てて寝台からまろび出て戸の中に身を隠したが、敢え無く見つかり討たれた。謀反の計画は成功を見た。


 その後、襄公を討った公孫無知が新たな斉侯として立ったが、彼もまた君主の器ではなかった。憎悪した襄公と同じくらい無軌道で、同じくらい酷虐だった。そしてやはりというべきか、末路も同じとなった。つまり臣下の恨みを買い、討たれたのである。即位して間もない、春のことであった。


 斉の侯位は空席となった。誰かが頂点に立たねば、国は纏まらない。斉に代々仕えてきた名門高氏(こうし)国氏(こくし)の二家は、莒の小白を呼び寄せることにした。小白は幼少の頃より高氏の頭領・高傒(こうけい)昵懇(じっこん)だった。亡命後も鮑叔が敷いた連絡網を通じて連携を密に取り合い、何かと便宜を図ってもらっていた。今回兄である糾を差し置いて小白に白羽の矢が立つことも、前々から鮑叔と高傒の間で密約が交わされていたのである。この辺りの手腕に、是が非でも小白に斉を取らせんとする鮑叔の執念が感じられる。


 一方、斉の変事を知った魯の国でも、軍を発して公子糾を斉に送り届け、斉候に座につけようと画策した。魯の息がかかった糾が隣接する大国の主となれば、何かと都合が良い。この時点で斉の侯位争いは糾と小白、どちらがより早く臨淄に赴くかという、ある種競争の様相を呈したのである。


 そうなれば地理的な距離の面でも、曲阜から発する糾よりも莒に雌伏していた小白の方が有利となる。鮑叔の慧眼(けいがん)がここで生きたことになる。


 時の魯の君主荘公(そうこう)も、その不利に直面して手をこまねいていたわけではない。大国斉に紐をつける絶好の好機である、多少過激な挙に出ることもやむを得まい。荘公は魯軍に糾を送らせる一方、管仲に小白の道行を妨害するよう指示したのである。場合によっては小白の命を絶つことも躊躇うな、との含みを持たせて…


 魯侯の命を受けた管仲は選りすぐった少数の魯兵のみを率いて曲阜を出立。急行し、莒から臨淄へと続く路の途上に、小白一行が通過する前に兵を伏せることに成功した。


 やがて一行の姿が路上にみえると、管仲は麾下(きか)の兵に総攻撃を命じた。奇襲は完全に成功した。双方小人数だったこともあり、仕掛けた側の管仲陣営が終始有利に戦闘を進めていたといえる。そんな最中、指揮官の管仲自身が弓を手に取り、―矢を放った。その矢はあろうことか車上で指揮を執っていた小白その人に一直線に向かい、やがてその身体に吸い込まれたかに視えた。小白は倒れ、その影には確かに矢が突き刺さっていた。管仲の部隊からは歓声が、小白一行からは悲鳴が同時にあがった


 実はこの時、矢は小白がつけた帯鉤(たいこう)(帯を締める金具)の金具に刺さっており、その身体には届いていなかった。しかし小白は、咄嗟に矢に腹部を貫かれ己が絶命したように装った。佯死(ようし)を謀ったのである。


 結果から言えば、この計略は大成功だった。襲撃を引き上げ糾を擁した魯軍と合流した管仲は、糾にも魯の指揮官にも「小白は我の放った矢が突き刺さり死んだ」と報告した。競争相手が消えたと思い込んだ魯軍はすっかり弛緩しきり、その歩みは悠々としたものとなった。その間、小白一行は近くの郷で温車(おんしゃ)(霊柩車)まで用意して“頭領の死”を演出して、完全に魯軍の目を欺いた。そのまま斉国内を進み、もう魯軍の監視の届かない地点まで来たとみるや即座に喪の外装を脱し、猛然と臨淄を目指し、見事魯軍に先んじて到着したというわけである。


 小白一行は高・国二氏に迎えられ、入城を果たした。こうして小白は擁立され、桓公となったのである。糾を擁する魯軍が悠長な足取りで臨淄手前までたどり着いた時には、城門は固く閉ざされ、すべては終わっていた…




 小白が管仲に矢を射られた時、鮑叔は主の傍にいなかった。突然の奇襲を退けるため、迎撃部隊を率いて一時的に前線に身を投じていたのである。その前線で“小白(こう)ず”の報が流れた時は、血の気が引いた。慌てて本営に引き返し、小白が咄嗟に佯死を装ったと知った時は腰が抜ける程安堵した。そして矢を射た管仲に対する激しい怒りに震え…次いで訪れたのは、どす黒い歓喜だった。


 これで管仲も御終いだ、と思ったのだ。管仲の放った矢の軌道が実際よりわずかでもずれ、帯鉤以外の身体の部位に突き刺さっていたら、小白が絶命していたことは疑いない。小白―桓公にしてみれば危うく管仲に殺されかけたわけで、その恨みは筆舌に尽くしがたいものがあるだろう。登極して後、報復を望むことは間違いあるまい。既に侯位争いの趨勢も決した今となっては、管仲は自ら己の未来を閉ざしたようなものだった。


 ともあれ桓公が登極した後では、糾を擁して斉国内まで進んだ魯軍は侵略者以外の何者でもなくなる。短期間で国内を掌握し軍を整備した桓公は、その鋭鋒を以て魯軍に強かな打撃を喰らわせ、域外へと追い返した。糾にしてみれば弟にみすみす侯位を奪われ敗走を余儀なくされた形である。歯噛みするほど悔しかったであろう。


 おさまらないのは荘公も同じだった。斉に魯の傀儡君主を据える、という目論見が捨てきれなかった。春に被った痛手の記憶も薄れぬうちに前685年秋、再度桓公打倒の出師(すいし)を発したのである。今度は競争などという生易しいものではない、力ずくで斉の侯位を奪ってしまえという腹積もりだった。


 無論、臨淄を目指す魯軍の中には次代の斉侯たるべき公子糾の姿もあった。魯にとって彼は、呼吸する大義名分である。管仲、召忽も糾に付き従っていた。


 この度の魯軍は斉国内の乾時(かんじ)という地に於いて桓公の発した斉軍とぶつかった。この斉軍の指揮官こそ鮑叔だったのである。結果、春にも勝る斉軍の圧勝となり、勢いづいた鮑叔はそのまま兵を率いて魯の首邑曲阜に迫ったことは、既に述べた。


 実は乾時へ出兵する直前、鮑叔は桓公より、勝利した折に魯へと突きつけるべき停戦条件を直々に申し渡されていた。「公子糾は魯の側で処刑すべし、及び管仲と召忽は捕縛して斉軍に引き渡すべし」というのがその要旨であった。彼はその通りの内容を、曲阜内にいる魯の荘公に勧告した。


 公子糾は国侯の座を争った政敵とはいえ、桓公からみれば実の兄である。斉で身内の命を絶ってしまっては外聞が悪いので、魯国の方で始末をつけてもらいたかったのだ。


 一方、二人の傅については、桓公が身柄を求めているのは主に管仲で召忽はついでのようなものだろう、というのが勧告を聞いた衆目の一致する処だった。鮑叔の見方も同じだった。その目的は、自らの手で管仲への復讐を遂げる為に違いあるまい。何せ己の命を危うくした、憎き仇である。


 あれほど狡猾に己の前をうろつきまわっていた管仲が、なんと致命的な過ちを犯したことか!管仲が桓公―当時の小白に矢を放った一件を思い返すたび、心中でそう快哉を叫ばずにはいられない。桓公の手に引き渡された時、一体管仲はどれほど惨たらしく処刑されることだろう…鮑叔は魯に突きつけた降伏勧告の返答を待つ間、一人想像を弄び愉悦に浸っていた。


 首邑に矛先を突き付けられたまま申し渡された停戦条件である、魯からすれば脅迫と何ら変わる処がない。乾時の敗戦で兵力の大半を失った魯には、最早斉軍が総攻撃に移った時それに抗う術もなかった。唯々諾々と要求を呑むのが、残された唯一の選択肢だったのである。


 ほどなく、魯が糾を処刑し、管仲を捕らえたという報が鮑叔の元にもたらされた。


 もう一人の傅である召忽は、糾の死を知るとその場で自害したという。その報を聞いた時、鮑叔は意外の感に打たれた。それまで召忽には管仲の幇間程度の印象しか持っていなかったが、そんな忠義な一面も持ち合わせていたとは。主君に殉じた召忽の身の処し方を清冽だと思い、感動した。反面、同じ立場にありながら尚現世に執着する管仲の生き汚さがいよいよ浮き彫りになったな、と侮蔑を新たにした。


 ともあれ、こうして管仲は鮑叔の手に落ちたのである。

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