管鮑青春
斉は周王朝樹立の功臣・太公望呂尚を始祖とする国である。中華の東方、現在の山東省周辺に位置し、北は渤海、東は黄海に面してその気候は温暖だった。後の世の時代区分で”春秋時代”と呼ばれるこの当時、漁業・塩業・鉄鋼業が栄え、強大な国力を誇っていた。
主邑が臨淄であることは、先に述べた。管仲も鮑叔も、臨淄で幼少期を過ごした。
管仲の父管厳は、元は穎上という遠い地に住んでいたらしいのだが、管仲がまだ物心もつかぬ頃、何か事情があってそこを出奔し、臨淄へと移住してきたらしい。そこで時の斉の国主僖公の寵を受け、国政に関わる重臣となった。
鮑叔の家も代々斉に仕える名門だった。重臣の子弟同士、自然と行動を共にするようになったのだが、管仲はその頃から狡賢く、世渡りに長けた子供だった。
何か間違いや悪さをしでかしても、他者に責任を添加し自分は難を逃れてしまう。仲間内で気に入らなかったり自分に反抗的な者がいると、舌先三寸で巧みに他の子供達の心証を誘導し、のけ者扱いにしてしまう。腕力はそこそこ強かったが決して自分は矢面に立たず、他所の喧嘩を陰から眺めつつ漁夫の利を狙うといった如才なさだった。
そのくせ外面を取り繕うのは得意だから、大人受けは頗る良い。単純な子供では到底太刀打ちできない奸智に加え、すばしっこく耳も早い。管仲についていけば他の子供達も美味しい目をみれるとあって、いつしか自然と仲間内の頭領格と見なされるようになっていた。
やはり斉の名門の子弟だった召忽などは一の子分を気取って金魚の糞のように始終ついてまわっていたが、鮑叔は当時から管仲が嫌いだった。よく言えば真面目、悪く言えば要領が悪い鮑叔は、管仲に利用されては貧乏くじを引くことしきりだった。とある富豪の家の樹になった桃を盗みに行こうと管仲に唆され、懸命に桃を捥いでいたらいつの間にか置き去りにされたこともあった。囮として、わざと取り残されたのだ。のろまな鮑叔が家の者に見つかり大目玉を喰らっている頃、手早く桃を捥いで仕事を切り上げていた管仲はそれをしり目に悠々と遁走していた…
やがて青年期に達すると管仲は放蕩息子となり、臨淄の各所で浮名を流すようになった。父親は醜聞が拡がるのを防ごうと事あるごとに腐心していたようだが、ある時とうとう我が子に見切りをつけ、管仲に勘当を言い渡した。
管仲は無一文となり、糊口を凌ぐために賈人(商人)に身をやつすこととなった。
この話を聞き、青年鮑叔の胸は晴れ晴れとした。幼い時分から管仲に良いようにあしらわれてきた憤懣は、既に骨髄に達していた。
ところが、このことが鮑叔に予期せぬ災難をもたらすこととなる。何と鮑叔の父が、管仲に同行して賈を行うよう命じてきたのである。
次第を聞くと、どうやら管仲が事前に鮑叔の父を訪れ、吹き込んだらしい。
「私は父の命でこれより賈に旅立ちます。下々の生活を体験し、見聞を広めよという父の計らいです。またと無き良き経験となるだろうこの旅に、是非とも無二の親友たる叔君を伴い苦楽を分かち合いたいと思うのです。何卒御父君から取りなしていただけますまいか」
元々鮑叔の父は外面の良い管仲に幻惑され、常日頃から「あれは見事な若者だ」と高く評価していた。また管厳の火消し工作が功を奏し、若者界隈ほどには管仲の醜聞は名士の間で浸透していなかったらしい。管仲の言い条にすっかり感嘆させられた父は「尤もなことだ」と、本人の意向も聞かず鮑叔の同行を許諾してしまったという。
「お前もいずれはこの斉の国政を司るだろう身、今の内に苦労を覚えて己を磨かねばならぬ。管君と共に下々の者と交わり、視野を広げてくるがいい」
元来が良く言えば豪放磊落、悪く言えば細かい処まで思慮が及ばぬ父があげる豪快な哄笑を聞きながら、鮑叔は目の前が真っ暗になった…要するに管仲は一人では手に余る賈を手伝わせる、否、己の手足としてこき使う駒が欲しかった。そして単純な父親を持ち、自身も要領が悪く扱いやすい鮑叔に、またしても白羽の矢が立ったというわけだった。一体どれほど、自分の人生を苛めば気が済むのか!
こうして鮑叔は若年の一時期、管仲と共に各地を放浪しながら賈を営む羽目に陥った。何しろ実家からの仕送りもなく、商売で稼ぐ以外に生活の糧を得る手段もない。持ち前の生真面目さで鮑叔は身を粉にして働いた。
幸いというべきか、彼には幾何かの商才があったらしい。勝手が分かってくると面白くなり、庶人としては随分余裕のある生活を送れるくらいの稼ぎは叩き出せるようになった。
ここでも業腹だったのは管仲のやりようで、彼は仕事の殆どを鮑叔に丸投げして己は殆ど寄与しない癖に、いざ利益が出ると言葉巧みに理屈を捏ねて儲けの殆どを自分が摂取してしまう、という有様だった。そもそもの旅の初めから管仲が主人で鮑叔が雇われ人という関係が、いつの間にか形作られてしまっていた。もちろんこれも管仲がそれとなく誘導した結果で、人の良い鮑叔はまたしても割を食わされたのである。
ある時、戦の噂を聞きつけた管仲はこれは商機と見たらしく、珍しく積極的に動き武具を大量に仕入れた。戦前の需要高騰で儲けられると踏んでのことだったが、これがとんだ空振りだった。噂は所詮噂に過ぎず、戦など起こらなかったのだ。鮑叔の努力でこつこつ蓄えられていた財はこの投機で一気に吹っ飛び、後には不良在庫の武具の山だけが残った。
鮑叔は当然激怒したが、管仲は一向に悪びれない。「我の見通しにお主は異を唱えなかったのだから同罪だ。お主こそ我の右腕としてもっとよく状況を調べて、我に助言してくれるべきだった」などと、こちらに難癖までつけてきた。これには鮑叔も呆れてものも言えなかった。
管仲にはこのように、思い切った冒険に出ては当てが外れて大過を招く、というような所があった。醜聞により父親に勘当されたこともそうだし、この時の大損もそうである。その習性に輪をかけて悪質だと鮑叔が思うのは、そのような失敗の後でも決して致命的なものとはせず、己の責任から巧みに逃れ、切り抜け再起してしまうしぶとさと機転を兼ね備えている点であった。幼少時からしでかした悪さの責任を他に転嫁していたのと同じで、これは最早ある種の天分と言うべきだろう。
この時もそうだった。商売に失敗し多額の借財を背負った処で、管仲は臨淄の父親に泣きついた。「どうか助けてほしい」と恥も外聞も捨てて訴えるような文面をしたためた書簡を父宛に送ったそうだが、後で聞くとその中では随分鮑叔への責任転嫁がなされ、己がさも鮑叔の失敗により被害を受けたかのような文章が多く含まれていたらしかった。
一度は勘当した息子とは言いながら、このような窮状を訴えられ管厳の中にも憐憫の情が沸いたようだ。或いはもう灸は十分に据えたと判断したのかもしれない。管仲は実家に帰ることを許され、ここに賈を商う旅も終わりを迎え、ようやく鮑叔も臨淄へと戻ることができたのだった。貴重な体験だったと思う一方で、やはり管仲に煮え湯を飲まされた印象の方が強く、忌々しい思い出として後年まで残る旅となった…
晴れて臨淄に戻った管仲と鮑叔は、ほどなく斉の宮廷に召し抱えられることとなる。かつて管仲の幇間だった召忽も、既に官人として職務に従事していた。当時の斉公は依然僖公だった。彼は糾、そして桓公の父にあたる人でもある。
鮑叔たちの業務は事務的なものが主だったが、戦となれば幾ばくかの兵を率い出征することもあった。
往時の管仲は、戦に関しては”猛将”という言葉と対局にあった。自軍が敵軍とぶつかり戦端が開かれると、管仲は申し訳程度に指揮を執り、幾ばくも経たぬ内に己が率いる兵を連れて引き揚げてしまった。管仲の兵が抜けた後の斉軍は自然陣容が薄くなり、残された斉の将官達がその穴を埋めるべく苦労を強いられたのは言うまでもない。鮑叔もまた、やはりというべきか、管仲の撤退により辛苦を舐めることとなった将帥の一人である。
そんなことが、戦場で三度続いた。
鮑叔はじめ斉の将帥達は当然激怒し、管仲の咎を僖公に訴えた。審問の為、玉座の前に引き出された管仲は、涙ながらに主君の前で次のように述べた。
「私には年老いた母がおります。既に父も世になく、子は私一人。もし私が戦場で命を落とすようなことがあれば、母は世話をするものも看取るものも失い、老いた身をどう処すれば良いでしょう。そう思えばとても敵の矢面にこの身を晒すことはできませんでした。主よ、何卒母を思う子の心をお汲みください」
確かに管仲には老いた母がいた。父の管厳が既に亡くなっていたのも事実である。しかし管仲の母は亡き夫の残した資産で贅沢三昧の日々を送っており、鮑叔の観たところ当分殺しても死にそうにない風体だった。相変わらずの見え透いた方便を言いおって、と鍔でも吐き掛けたい気がした。そもそも戦場の怠慢は公事、老母のことは私事ではないか。私事の為に公事を怠っていい法など、どこにもあろうはずがない。
ところが僖公がこの管仲の哀訴を涙ながらに聞き、その罪を不問に付したのだから、鮑叔としては開いた口が塞がらなかった。
儒教の祖、孔子が生まれるのはこれより百五十年ほど後である。よって儒教の基礎徳目となる”孝”の観念もまだ中華の人々の認識下には存在しないのだが、それでも父母を尊ぶべきとする道徳観は既に一般通念として浸透してはいただろう。しかしこの場合、僖公を動かしたのは明らかにそのような道徳への信奉ではなく偏好・身びいきといった類の感情だった。
先にも記したとおり穎上より斉へ渡ってきて以来、僖公は管仲の亡父管厳を寵愛していた。その管厳を失った寂寥も手伝ってか、寵は息子の管仲へとそのまま移ったかのようだった。加えて管仲がその印象を助長すべく、へつらいと追従を総動員して僖公に取り入った。管仲は今や押しも押されぬ、僖公の寵臣だったのである。
こうしてまたしても危地を脱した管仲は、以後戦場から遠ざかり、文官としての職務に専念することとなった。
鮑叔にとって真に忌々しいことに、管仲は文官としての才には確かに秀でていた。職務の処理・決済が早く、且つ適格で、有益な進言も多々行った。また教養豊かでもあり、故事や典礼に通じていた。戦場での失態にも関わらず、僖公の覚え益々目出度く、順調に出世を重ねていった。
やがて管仲が僖公の次子・糾の傅を、鮑叔が三子・小白の傅を拝命した。小白とは無論、後の桓公であるが、この人事は鮑叔を打ちのめした。三子より次子の方が当然重きを置かれる存在であり、公位にも近い。未来を覗く目を持たぬ鮑叔には、この時己が教導することになった少年公子が将来中国史上に燦然たる軌跡を遺す名君に成長しようとは、知る術もない。僖公が自分より管仲を高く買っていることを、歴然と表明されたように思えたのだ。鮑叔は元来出世欲が強い方ではなかったが、幼少からの経緯により管仲に対してのみ、一方ならぬ対抗意識が育まれていた。
また管仲の人事より程なく、召忽もまた糾の傅の一人となった。これは順調に出世していく管仲をみた召忽がまた昔のようにへつらいだし、管仲に僖公へと取りなしてもらった結果であろう、と鮑叔はみていた。故に鮑叔の召忽への評価は、しばらくの間蔑み一色となっていた。その評価を一変させるには、実に先日の曲阜への進軍まで待たねばならなかった…
尤も、三子の傅に任じられたという鮑叔の憤懣は、当の公子小白-後の桓公-と接するうちに徐々に解消されて行った。小白は年少ながらも、その頃から大器の片鱗を垣間見せており、その壮大な気宇と柔軟な心術に鮑叔はすっかり感じ入ってしまった。己をこの公子に巡り合わせてくれた僖公に、いつしか感謝の念さえ覚えるようになっていた。
やがて僖公が身罷った。前698年、即位三十三年目のことだった。
代わってその長子、諸児が襄公として斉侯に登極する。糾、小白の兄にあたる人物である。
この時より斉国の動乱がはじまり、小白の斉侯への道が開けるのである。