ニクロム線
皇紀2583年12月13日 帝都東京
「実は、もう一人お呼びしている方がいらっしゃいます……その方もお忙しいようでまだ顔を出されていませんが……まぁ、人呼んでニクロム線と渾名される方でして……その方もお仲間です」
有坂総一郎は東條英機中佐に酌をしながらそう告げた。
「ニクロム線?」
東條は総一郎の言葉に訝しんだ。前世の記憶ではある人物が思い当たったが、直接の親交はほとんどなかった人物の渾名であったからだ。
「ええ、またの名を……」
「平賀譲らない……とでも言いたい様だね……有坂君……」
総一郎が言葉を続けようとしたところに障子が開きニクロム線が入ってきた。
「平賀譲造船少将である……そちらは東條総理ですな……」
東條は目を見開き、総一郎は頷いた。
ここに陸海軍の前世の記憶を有する者が……役者が揃ったのである。
史実では、平賀はこの時期には艦政本部第四部計画主任の任を解かれ、列強の建艦状況視察の名目で外遊に出され左遷されていた時期であるが……この世界において彼は帝都にいるのであった。
平賀は座布団に座ると結奈から酌を受けると駆けつけ一杯とばかりに一気に煽る。
「先日頂いた酒と違ってこれは美味い……どこの酒造か?」
「旦那様の肝いりで特別に醸造していただいたものですわ……お土産にお持ち帰りくださいな」
結奈はそっと土産用にと風呂敷に包まれた一升瓶を平賀のすぐそばに置くと総一郎の隣に戻っていった。
「さて、東條さん……先程申しました通り平賀さんは海軍側において前世の記憶をお持ちです……そして、私が海軍側で唯一接触をしている方と言えます……ですので、陸軍ほどには海軍は前世と変わらないと思います……ただ、我ら以外の意思が働いていることでワシントン会議の結果は変わってしまいました……」
総一郎はここで重要なことを東條に初めて語った。
「我ら以外の意思? では、貴様が暗躍した結果の条約ではないのか?」
これまで東條はワシントン会議の結果が変わったことを総一郎の差し金によるものであると考えていた。特に尋ねるつもりもなく、ただ、恐らくそうであろうと思っていたのだ。
東條は平賀に視線を向けると彼も首を横に振った。
「総理……いや、今は中佐でしたな……私が介入したと考えておるようだが、それは違う。造船技官如きが条約に口を挟めるわけがなかろう? それにな、私が知っておるのは中佐が知っておる内容とほとんど同じで、海軍側に偏ったものだ……特に大和建造に関わってからは殆ど引退しておる……」
平賀は戦時中には何ら軍務でその影響力を行使することはなく東京帝大総長としての職務を全うし、43年2月に在職中に病死している。
「中佐、私が御国に貢献出来る点は大まかに2つじゃ……第四艦隊事件や友鶴事件を回避すること、電気溶接の技術促進……これなのだ……」
平賀はここではない遠くを見つめそう言った。
帝国海軍の艦艇建造による弊害は全てここにあるのだ……と平賀は目で語っていた。
「有坂君から聞くに……我が帝国海軍の艦艇は……この私の設計思想に引き摺られ……また用兵の無茶を聞き入れ過ぎた藤本君の設計によって重武装となった……そして、電気溶接という技術が未成熟であったことから多用による船体の歪みと強度不足を生みだし、それを是正するために多用を禁じ、結果重量過大とならしめた……これは全て造船を主導した我ら二人の責任だ……」
平賀の独白は重々しく、それがゆえに深い後悔と苦悩を感じられた……。
彼は彼の手で出来る範囲の最大限のことを行ったが、それとて後世から見れば次善の策であると言える。全ては国力、そして技術力、工業力の未成熟による弊害が齎したものだからだ……。
技術的未成熟の溶接を多用することは危険だと平賀は考え、藤本喜久雄は逆に船体重量を軽くするために溶接を多用した。双方ともに造船上の制約をクリアするための策として選んだ方策だったが……結果は前者は重量過大とリベット破損による浸水拡大を招き、後者は船体の歪みと強度不足による船体破損を招いた。
「ゆえに、私は造船上の無理をしない建造をすることに注力する……同時に電気溶接の技術進展を促していきたいと考えている……電気溶接が多用出来るようになれば……船舶の大量生産が可能になる……これは海上輸送力を担保すると言っても過言ではない……」
平賀は自分の役割を伝えきると酒を飲みつつ鍋に舌鼓を打ち始めた。
「そこで、東條さんには技本の原さんに戦車開発で電気溶接を文字通り満足いくレベルに実用化していただくように手配していただきたいのです……」
総一郎は平賀の言葉を継ぐかのように東條へつなぎ役を依頼するのであった。




