東條と甘粕
皇紀2597年2月26日 満州総督府領 大連
有坂夫妻が馬鹿をやっている頃、関東軍総司令部の実質的な主である東條英機中将はかつての部下である甘粕正彦に会っていた。
「すまない。呼びつけておきながら甘粕を待たせてしまったな」
「いえ、未整理の情報を整理しつつ如何に報告すべきか思案しておりました故、ご安心を」
「そうか。では、早速報告を聞こう。あぁ、掛けてくれ。なんだコーヒーも冷めているではないか、少し待て今用意する」
そう言うやいなや東條は入ってきたばかりであるのにそのまま部屋から出て行く。
「閣下自らおいでにならずとも良いだろうに」
甘粕はそうつぶやくが、東條の心遣いを察し笑みを浮かべる。
「閣下はいつもそうだ。何をすれば誰がどう困るか、よく見ていらっしゃる。今、電話で伝えても良いだろうし事足りる話だが、そうすれば茶を用意した士官の不手際となるから、自分が今飲みたいという体で動かれる」
甘粕はそんな東條が人間として好きだった。甘粕事件の際に命を預けろと言われて文字通り軍人生命をなげうったが、そんなこと彼にとっては大したことではなかった。その後もなんだかんだで手を回して苦労しないように手配してくれたことに甘粕は感謝している。
「おぉ、また待たせたな。実はな、最近、美味いコーヒーが手に入ったのでな、貴様にも是非味わってもらいたいのだ」
湯の入ったポットを片手に人懐っこい笑みを浮かべて東條はドアを開けつつ甘粕に語りかける。
「閣下が手ずからお淹れになるので?」
「ああそうだよ。なに、最近凝っていてな、専ら自分で淹れて飲んでおる。植田閣下も飲みに訪れることがしばしばなのだよ」
楽しそうに語る東條の笑顔の裏に見え隠れする疲労の度合いに甘粕は気付いたがあえてそこには触れなかった。彼の心労の理由に自分が呼ばれたことと関係があるのはよく理解していたからだ。
「閣下ご自慢のコーヒー、謹んでいただきます」
「そんなに畏まるな。たかがコーヒーだ。だがな、甘粕、コーヒー一つといえども、侮ってはいかん。一つ間違えると途端に不味くなる・・・・・・わかるな?」
「北支の情勢と同じと言うことですか」
「あぁ、その通りだ。あの御仁が下手に動けば、それが火種となる。余分な火種を抱えられるほど我が帝国には体力があるわけではないのだが、どうも連中はそれを勘違いしておる。アジアの盟主だなどと寝言を言って憚らない・・・・・・まして文化的先達の支那、その王朝を奉じることで欧米列強と渡り合うなどと世迷い言を本気で宣っておるのだからな」
東條の心労は国内外に分布するアジア主義者が天津で策謀を進めていることから来ていた。そして、関東軍はその担当区分から山海関以西について関与出来ず、支那駐屯軍がその任を請け負っていたが、山海関を抜けて入り込んでくるアジア主義者が北京北洋政府や天津に逼塞する愛新覚羅溥儀と盛んに接触していることから警戒をしていたのである。
「支那駐屯軍からはなんと?」
「どうも、彼らはあまり熱心にアジア主義者を注視していないようでな。密偵からの報告では大陸浪人も最近では天津や北京で見かけることが多くなったそうだ」
「大陸浪人と言えば、里見甫らでしょうか」
「いや、里見は先日も会ったが、とても協力的でな。機密資金や情報の提供もいつも通りしてくれている。阿片の密売と銀と銅の回収も順調だそうだ。しかし、奴も気になることを言っておってな・・・・・・それを貴様に追跡調査してもらいたいのだ」
「なんなりと」
甘粕は本題に切り込んだ東條の表情の変化を見逃さなかった。
「表向きは満映の興業と言うことで上海に渡って欲しい。そこから里見の手の者と連絡を取って中支に潜入してくれないだろうか」
「北支から入らないのは理由があるようですな」
「どうも山東半島でドイツが抗独ゲリラに手を焼いているらしい。そのゲリラは国府勢力圏から来ているそうなのだが、使っている武器がかなり雑多でな、黒幕がつかめないらしい」
「そこで、上海から潜り込むと言うこととつながりがどう出てくるのです?」
「ブロードウェイだったか、あれが上海で公演をやるらしいじゃないか」
「ほう、そういうことですか、ブロードウェイに満映の女優をぶつけて現地の視線を集めると・・・・・・それで各地で映画上映して回ることで目眩ましにすると」
「そういうことだ。敏腕理事長なら、この機会を逃す手はないだろう」
「確かに・・・・・・満映の肩書きで国府勢力圏を闊歩するならそれほど支障はないですからな」
「頼まれてくれるか?」
「閣下、そういうときは「儂に命を預けよ」で良いのですよ」
甘粕はニヤリと笑みを浮かべて東條に敬礼を捧げる。
「貴様の命は儂が預かっておるのだ、勝手に死ぬなよ」
甘粕の敬礼にまっすぐな視線を向け、答礼する東條の言葉は重かった。
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