チキンレース
皇紀2597年2月15日 ソ連情勢
ノモンハン事件における労農赤軍の反応は様々であった。ミハイル・トハチェフスキーやゲオルギー・ジューコフといった赤軍元帥を信奉する一派は戦車の能力不足を訴え、重装甲、大口径砲を要求し、赤軍保守派はこれに対して従来通りの快速戦車と重戦車路線を主張したのである。
赤軍の勢力図的にヨシフ・スターリンと対立しがちで尚且つ敵視されているトハチェフスキーやジューコフはモスクワから離れた地域に居ることもあってモスクワ中央への影響力を発揮するには立場が弱かったと言わざるを得ないだろう。特にジューコフは収監中であり、尚且つ彼の指揮した極東赤軍は敗戦続きもあって立場がないと言っても良かった。トハチェフスキーに至っては秘密警察に行動を監視されていることもあり表立って政治的な発言をしなかった。
こういった事情からノモンハンにおける戦訓を得ていながら、赤軍の戦車開発は結局従来路線を継続することで落ち着いたのである。
これに大きく影響力を発揮したのはスターリンの覚えめでたい砲兵総監グリゴリー・クリクであった。彼がスターリンの意向を汲んで政敵排除と自身の権勢を確立するためにトハチェフスキー及びジューコフ一派の主張を退け、同時に同調した人物を左遷することで封殺したことで従来路線の継続がほぼ確定したのだが、それ以上に大日本帝国陸軍が使用する37mm戦車砲及び速射砲ではBT系列の快速戦車は兎も角、T-35などの重戦車相手では手出し出来ないという実例がその主張を支えたのだった。
実際は九四式軽戦車の37mm戦車砲でもT-35の装甲は貫通可能であったが、有効弾を与える前にT-35が搭載する45mm戦車砲によって九四式軽戦車の方が撃破されるというそれによってある種の錯覚が発生していたのだ。
だが、それでもBT系列の快速戦車の累積損失は尋常ではなく、装甲が十分ではないことを意味していた。この状況は戦車開発側の設計技師たちに新たな戦車の開発方針と必要条件を指し示すことにもなった。
彼等は開発中であったT-29重戦車のそれを放棄し、T-111中戦車にそれまでに得た知見を元に全くの新機軸を打ち出すことで、問題の解決に立ち向かった。そして、その指揮を執ったのがミハイル・コーシュキンという技師であった。
「従来の重戦車は重量の割にその装甲が薄く、早晩陳腐化するだろう。実際にT-35はヤポンスキーと追いかけっこをして罠に嵌められたという。身動き取れなくなったT-35は75mm級野砲でたこ殴りにされて撃破されたそうだが、仮にこれがもう少し軽量で尚且つもう少し速度があったならどうだろうか?」
彼の設計の原点はそこにあった。重量削減、装甲の強化、軽快な機動性、文字通り相反する要素を詰め込んだものがT-111のコンセプトだったのだ。
しかし、幸いにも解決策を用意することが出来ていた。
「リベットの極力廃止、電気溶接を多用して重力削減を行う。浮いた重量をそのまま装甲の増厚に用いる。発動機はガソリン駆動300馬力もあれば十分だろう」
ただ、彼はこの時点で備砲については保守的であるが堅実な45mm砲の搭載としていたのだ。赤軍側も45mm砲で十分であるという見解を示していた点と砲兵総監のクリクが76.2mm砲について否定的な態度を取っていたことが理由だ。
ある程度まとまった設計原案で示されたそのおおよその性能は以下の通りである。
重量32.3t
全長5.4m
全幅3.14m
全高2.416m
要員数3
装甲20~60 mm
主兵装1932年型45mm戦車砲
副兵装DT機銃×2
エンジン 300hp
行動距離 90~126 km
速度31km/h
想定していたよりも重量増加があった分、速度性能が落ち込んだことに不満を覚えたコーシュキンであったが、T-35を上回る重装甲で同等の機動性を確保出来たことは満足であった。
だが、問題はそこではなく、その性能を担保するために各部機構が複雑であり、量産に適していないこと、また戦場においての整備が容易ではないという点が設計原案の時点で見え隠れしていたことだ。
「同志コーシュキン、この機構では製造が容易ではありますまい」
「とりあえず、そこは目を瞑ろう」
開発チームからの指摘をそう言って見なかったことにしたコーシュキンだが、彼にはそんな部分に目を向ける余裕がなかったのは開発チームの誰もが知っていることだった。そして、彼等もまた同じく余裕などなかった。精神的にも肉体的にも・・・・・・。
「きっと工場労働者たちが問題を解決してくれる。その時には労働英雄として称えてやろうじゃないか」
最早そこは他人事であった。自分たちが解決出来ないことを他人任せにして逃げることを選んだ瞬間であった。そして、彼等の逃げを批判することは出来ないだろう。なぜなら、彼等には一刻も早くこのT-111を机上の存在ではなく、大地を征く存在とする必要があったのだから。
彼等が問題解決を図ることなく、設計原案を具体化するためにそれぞれ詳細設計に没頭することとなった頃、ソ連国内では大粛清の嵐が技術者に向けて吹き荒れ始めていた。
彼等もまた目の前の殺人的スケジュールな戦車開発と同時に背後に忍び寄る大粛清の影に怯えつつ、その対象とならぬように党に忠実な姿勢を示し模範的共産主義者として振る舞わないといけなかったのだ。
彼等の生き残る道はT-111を開発し、スターリンがその成果を評価することだけだった。彼等の生死を賭けた挑戦がここに始まる。
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