ドイツ政治情勢<1>
皇紀2597年1月23日 ドイツ情勢
最新のドイツ情勢を語るには34年にまで遡る必要がある。
34年にドイツ大統領パウル・フォン・ヒンデンブルグが死去した後、ドイツ政界は重石を失ったことで政治的権力の空白を狙って政界再編の動きが活発化したが、その時、真っ先に動いたのがヘルマン・ゲーリングであったことを知る者は多い。
実際、彼が動いた裏にはヒンデンブルグの遺言状による彼の死後における帝政派の行動指針があった。元々、ナチ党においても政財界と最も人脈が広く、資金力を有していたゲーリングだが、彼自身は確かにアドルフ・ヒトラー首相を個人的に信奉していたが、ナチ党との関わりはヒトラー個人との付き合いによるものでしかなく、政治思想・心情はどちらかと言えば帝政派に属していると言って良かった。
駐独陸軍武官を通した資金工作で有坂コンツェルンがゲーリングに多額の資金を融通し、献金額と彼個人の欧州大戦における英雄扱いもあって、亡命先からの復帰直後でありながらナチ党のナンバー2へと立場を確立した頃から、政財界との接触を密にし、これによってドイツ皇帝家であるホーエンツォレルン家との接触を行い、それによってヴィルヘルム皇太子とのルートを確立することが出来、帝政派の主要人物として振る舞っていた。
帝政派に接近するゲーリングを排除しようとナチ党左派がヒトラーに諌言したが、ヒトラーはゲーリングの貢献こそナチ党の飛躍に繋がったとして不問に付す判断を示す。ナチ党左派は諦めず絶えずヒトラーにゲーリング排除を訴えたがその都度却下され、34年5月、遂にこれに不満を示しヒトラーの排除を企み暗殺未遂事件が発生したのである。
首謀者はナチ党左派の首魁であったが、これに旧共産党員や社会主義者が加わり33年の選挙結果そのものを葬り去ろうとしたのであった。だが、これの動きを察した国会議長でありプロイセン州内相のゲーリングが直ちにこれを鎮圧し、ヒトラーの身柄を保護した。
一連の動きはヒンデンブルグの死期が近いと悟ったドイツ政界で誰もが主導権を勝ち取ろうとする思惑によって発生したものであったが、これによって完全に左翼勢力は息の根を止められ、ナチ党内部においても粛清の嵐が吹き荒れたのだ。
この結果、国会議員の多くも逮捕され場合によっては失職するという事態が発生したこともあり、実質的に国会が機能停止に追い込まれることとなった。しかし、全権委任法が否決されていたこともありヒトラー政権はその独裁権を確保出来ておらず、ナチ党内部からも相当な逮捕者、議員失職者数を出したこともありその求心力を失っていた。
この政変から完全に事態を収容する間もなく、ヒンデンブルグが8月に入るとすぐに死去し、ドイツ政界における権力の空白が発生してしまったのである。
だが、ゲーリングにとってはこれは好都合な情勢であったと言える。権力の空白、ヒトラー政権の求心力の低下はそのまま帝政復古の好機であった。ヒンデンブルグの国葬の用意を整え、その国葬において最も目立つ弔辞を読む役割を現職首相であるヒトラーではなく、ホーエンツォレルン家に委ね、ヴィルヘルム皇太子に担当させたのであった。
これにはヒトラーも激怒し、国葬が終わった後、首相官邸の執務室に戻るとゲーリングの解任を叫んだが、側近にそれを止められた。
「閣下、ゲーリングを更迭してはご自身の立場が危うくなります。確かに閣下はドイツ国民が信奉しておりますが、欧州大戦での英雄であり、閣下を危機から救ったゲーリングを更迭したとあっては国民が失望します」
ヒトラーも愚かではなく、全権委任法が否決された裏にゲーリングやヴィルヘルム皇太子の影があることは掴んでいた。だが、それでも政権運営上、ゲーリングの補佐を必要とし、彼なくして連立与党の運営を健全に行うことが出来ないという弱点を抱えていたことで見逃していたのだが、今回のことで堪忍袋の緒が切れたのであった。
「ゲーリングは余を差し置いて勝手に事を進めている。この様なことでは示しがつかない」
「閣下、冷静にお願いします。閣下の命令は確かに首相として下すことは可能でありましょう。しかし、国会議長の席は国会によって保証され、強行すれば、政財界とのパイプを失うことになりますぞ」
この時、ヒトラーの脳裏には粛清したナチ党左派の重鎮たちの言葉に従ってゲーリングを排除しておけば良かったという後悔がよぎった。だが、同時にその時にその諌言を受け入れていた場合、より自分の立場が悪化していたことも悟る。
ヒトラーは怒りに震えながらも自身の権力基盤の弱さを思い知らされ、なんとか挽回しようと考えるが、一度怒鳴ったことで幾分か冷静さを取り戻した彼は国内外の情勢を考えると下手な行動を出来ないことを悟り、ゲーリング更迭を思いとどまり、当面はゲーリングに変わる人材の発掘を行い、時機を見て体制内クーデターを行うことで権力基盤の強化を決意したのであった。
だが、対するゲーリングもヒトラーがどういう行動に出るかは予測済みであり、中央党などを通じて国会においてある議決案を提出させる手はずを整えていた。
ヒンデンブルグの国葬からそれほど日を置かない34年9月3日、ヒンデンブルグの遺言状がゲーリングによって読み上げられ、翌日、中央党によってドイツ国大統領の廃止と帝国摂政の設置に関する法案が提出され、1週間の集中討論が行われた後、14日に中央党他の賛成多数によって可決、翌35年1月18日、ドイツ帝国成立日に合わせて帝国摂政にヴィルヘルム皇太子が就任することが決まったのである。
ゲーリングが全権委任法を成立させず、帝政復古の機会を窺っていたのはこのタイミングを狙っていたからである。ヒンデンブルグの死、それに伴う権力の空白、ナチ党内の不満分子の動き、これらが丁度重なるタイミング、これらを準備を整えつつ待っていたのだ。
これにはヒトラーも驚きその意図を察するが、国会による議決で通ってしまっては抵抗のしようがなく、なんとかヴィルヘルム皇太子が帝国摂政就任を遅らせるために政治的工作を行うが、これといった効果がなかったことから工作を打ち切り、ドイツ国大統領の権限をそのまま帝国摂政の権限とされないように首相への権限委譲を図るべく政府法案として国家に提出、これによっていくつかの大統領職務権限を首相職務権限に移譲させることを画策した。
これら政治的闘争によってドイツ国首相は帝国宰相と改称され、閣僚の任免権を確保することに成功した。ヒトラーは閣僚の任免権だけでなく、国軍の最高指揮権も求めたが、中央党など帝政復古派が徹底抗戦したことでこれは確保出来ず、引き下がるしかなかった。
閣僚の任免権を得たことでヒトラーはゲーリングを政権から追放すること、また自身の選んだ閣僚に入れ替えることが可能になったが、流石にすぐにそれを実行することはせず、まずは適当な時期に内閣改造を宣言にするにとどめている。これはゲーリングへ「お前のクビをすげ替えるのはいつでも出来る」という明確なメッセージを意味していた。
しかし、この34年、そして翌35年はドイツにとって内政だけ見ていれば良いという情勢ではなかった。支那方面における情勢が安易な重要閣僚の変更を許す余地を与えなかったのだ。
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