1937年時点での世界情勢<4>
皇紀2597年1月15日 世界情勢
アメリカ合衆国において予算を巡る駆け引き、縄張り争いが活発化しているのと同じく、列強各国はいずれも軍拡の道を走り出す。
20年代から30年代において10年単位で経済成長を続ける大日本帝国は拡大した国力を満州における覇権確立へ振り向け、陸軍力の近代化、そして海軍力の拡張へ本腰を入れだした。これはそのままソヴィエト連邦との対決を意識したものであり、同時に太平洋を挟んだアメリカ合衆国の圧力を撥ね除けるためのものでもあった。
特に荒木貞夫陸軍大臣の指導下で陸軍は砲兵戦力の充実を図り、明らかに火力優勢ドクトリンを確立し、味方の砲火力支援によって戦場におけるイニシアティブを確保し、局地的な数的優勢によって戦局を有利に進める方向へ舵を切っていた。これは史実において105mm級軽榴弾砲を150mm級重榴弾砲に、そして75mm級野砲を105mm級軽榴弾砲にそれぞれ置き換えることで師団砲兵火力を充実させようとしたそれを実現したものだとも言える。
そして、史実と違うのはこの師団砲兵火力を機動砲によって迅速展開させることが出来、また十分な自動貨車の配備を行うことで輜重兵科の自動車化を推し進めたことで兵站の確保がより容易になったことで火力優勢ドクトリンを補強していた。また、満州における前線への輸送能力確保のために南満州鉄道及び東清鉄道の輸送能力増強が行われ、これはそのまま貨物/資源輸送を強化することに繋がっていたのだが、この輸送力拡大は内地の鉄道省が始めたコンテナ輸送を適用したことで輸送効率が跳ね上がったこともあり内地で生産された弾薬及び糧秣が次々と運び込まれることで北満州における優位を確保していたのだ。
また、この動きにはそのまま戦車開発と機甲部隊の増設という流れを生み出す。歩兵を直協する戦車の増産が望まれ、陸軍造兵廠、三菱重工業、日立製作所などの戦車工場が東京近郊に次々と建設されたことで月産80両規模で各種装甲車両が増産中となっていた。
急増する陸軍予算では新規師団の新編制は実現不能である以上は装備改変、師団あたりの火力増強という方向性を打ち出す結果を生み出していたのだが、それでも増大する予算を荒木は上手くコントロールしつつ戦場での戦火を示すことで帝国政府及び帝国議会に負担させることに成功していたのである。
荒木が予算獲得に成功している裏で大角岑生海軍大臣もまた軍縮条約の無効化に伴う海軍大拡張へ乗り出したのだが、そんな中で発生した東シナ海における海賊被害とアメリカ合衆国の支那介入という事態に好機とばかりに海上警備・海上護衛戦力の充実を名目にさらなる予算獲得を目指して行動を開始していた。
大角は、帝国議会に政治に海上護衛の責任を押しつける格好にし、政治がどういう判断をしようと予算と既得権の拡大を志向したことは記憶に新しいが、財界からの突き上げもあり大角の要求はその殆どが通過し、帝国政府に直属する組織として航路安全保障会議が設立され、戦時指揮権は帝国海軍が担うことで本格的に海上護衛組織がスタートしたのだが、その所属艦艇は旧式駆逐艦が帝国海軍から移管されそれを以て充てられていた。しかし、大角が要求した予算によってMEKOフリゲートが量産されることとなり37年後半にはこれらが主力を担うこととなっている。
また、このMEKOフリゲートは三菱重工業の下関造船所で量産されることとなったが、大英帝国もまたこのMEKOフリゲートに興味を持ち12隻の発注が行われ、東シナ海の多国籍海上警備行動が後に成立することに繋がったのだ。
しかし、この動きは当然の様に周辺国へ波及することになる。
帝国陸軍の火力優勢ドクトリンによって圧迫を受ける格好のモンゴル人民共和国、ソヴィエト極東赤軍は浸透戦術ドクトリンを採用し、これを支えるためにBT戦車の量産配備を推し進めていた。これはノモンハンにおける敗北で帝国陸軍の快速戦車に振り回されたことで重戦車よりも軽戦車を配備し、迂回挟撃または後方司令部を急襲することで対抗しようという意図があった。
だが、その一方でノモンハンにおいて多砲塔重戦車が容易に破壊されないという事実に自信を深めたヨシフ・スターリンはこれに気を良くして敵陣地突破にT-35を中核とする重戦車大隊を組織してこれと狙撃兵師団を組み合わせることで戦況が優勢になった際に投入し決着をつけるという方針に自信を深めたのである。
また、アメリカ合衆国の支那介入もソヴィエト連邦にとっては面白くない事態であり、航空機と高射砲などを中華ソヴィエトに供与することでYB-17Cの空襲に対抗したのである。カムチャツカ半島で手を結ぶ米ソであるが、その一方で支那における覇権確立においては逆に対立構図となっていたのだ。
日ソは満蒙平原において戦車と重砲を並べてお互いに激しく視線をぶつける。そして米ソは中原においてドゥーエ理論バトルを繰り広げてしまうことになったが、この日米ソの大陸における抗争はそのまま欧州大陸においても影響を及ぼしていた。
ソヴィエト連邦はコメコン構成国であるポーランド、チェコスロヴァキアに独仏の防壁となることを要求し、ドイツの下腹部に一撃を加えることを望んだのである。
この要求に従う形でチェコスロヴァキアはスコダ社にLTvz.35の量産を指示し、ソヴィエト連邦はこれをポーランド陸軍にも供給し、ドイツとの開戦が行われたならば、シュレジエン、ザクセン、バイエルン方面において機動戦を行うことを要求したのだ。軽快なこれら戦車部隊によって攪乱されることでドイツは容易にポーランド領、チェコスロヴァキア領を侵攻出来なくするためであった。
だが、ポーランドはこのソヴィエト連邦の要求を拒絶したのだ。伝統的に騎兵戦力の有効性を信じているポーランドにとって騎兵連隊の解体を求められることになるそれには応じることが出来なかったのだ。また、機動戦ならば騎兵の本分とばかりにその程度のことは戦車を用いるまでもないと考えていたのだ。
しかし、ポーランドが戦車配備に後ろ向きであったとは言えどもチェコスロヴァキアは機械工業が進んでいたこともありすんなりとその方向性をあっさりと受け入れ、LTvz.35の配備を進めていく。その視線はドイツに向かっているようであったが、その実、チェコスロヴァキアにとって最大の仮想敵国はドイツではなく南のオーストリア=ハンガリー帝国であった。
かつてロシア革命においてチェコ軍団がロシア領内で暴れ回り連合国の一員として認められ、戦後にオーストリア=ハンガリー帝国から独立、帝国崩壊に導いたことから、ハプスブルク家を再度戴き国家再統合したオーストリア=ハンガリー帝国からの報復が一番の現実的脅威であったのだ。
特にハンガリーへの仕打ちはやり過ぎていただけに同じくハンガリー虐めを行ったルーマニアは今回チェコスロヴァキアと距離を置き、ソヴィエト連邦の脅威に対抗するためにむしろオーストリア=ハンガリー帝国との接近を図っているだけにその仕返しを恐れていた。
実際、スウェーデンでランツヴェルクL60軽戦車が開発されるとオーストリア=ハンガリー帝国は即座にこれの購入契約を結び36年中に1個連隊と予備車50両を手配していたのだ。また、イタリア王国がエチオピア侵攻で九四式軽戦車の活躍を見せると大日本帝国との接近を示し、これも50両の輸入契約を結び、ライセンス生産契約も結ばれたのであった。37年7月には量産の運びとなっている。
ランツヴェルクL60はマーヴァグ(MÁVAG)社、九四式軽戦車はガンズ(GANZ)社とシュタイヤー社でそれぞれ生産されることとなったが、文字通りハンガリー人の恨み骨髄といったところで、戦車工場の食堂には社員の団結を図る目的か「我らの戦車は征く、プラーグへ、プレスブルクへ」とスローガンが掲げられていた。
37年1月も半月が過ぎると欧州大陸においても戦雲たなびくそれを一部の人々は感じ取っていた。また一部の人々は一攫千金を夢見て軍需産業に投資を行い始めていた。しかし、多くの人々は未だ戦争は余所の国のことであると信じていたのだった。
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