1937年時点での世界情勢<1>
皇紀2597年1月1日 世界情勢
1937年、史実では7月に起きた盧溝橋事件によって支那事変が勃発、瞬く間に支那全土に戦火が飛び火し、半年後の12月には中華民国首都南京が陥落する。
一度始まった戦は誰の手によっても止められない。
それはその時代特有の世界環境があっただろう。日独伊の持たざる者は軍備拡張と領土拡大という現実的手法によって解決を目指し、英仏の持てる者は自国の経済圏においてブロック経済によって他国の産品を締め出すことで内需拡大を目指し、出遅れながらも溢れる国力を持つアメリカはその手に持ちきれない富を更に増やすために旧世界を破壊せんと企んだ。
持たざる者も持てる者もどちらもある意味では犠牲者であったと言えるだろう。そのどちらも旧世界に属し、既得権益を有する地域大国であったからだ。
しかし、出遅れたアメリカはそんなことお構いなしである。自国から溢れ出る富と持て余す生産力を賄うためには既得権益を有する旧世界を破壊して奪い取る必要があった。そして、そんな資本主義社会とは別に共産主義という新たな世界観によって突っ走る存在があった。そうソヴィエト連邦だ。これもまた旧世界の破壊を目論む立場にあったのである。
限られた地球という盤面上には最早分割出来る様な空白の土地は存在していない。だが、ある意味では空白とも言える土地があった。それが支那という地域だった。
19世紀末、20世紀初頭に清というケーキを分割する列強の風刺画があるが、そんな風刺画が存在するのはそういった事情と背景があったことを意味している。
アメリカ風に得言えば、ラスト・フロンティア。
しかし、大日本帝国にとって不幸なことに、このラスト・フロンティアは地続きであった。裏庭を挟んだ隣家でもあった。更に言えば、大日本帝国が必要とした資源を産する地域でもあった。そして不幸なことに安定していない地域であったが故にそこにおいて武力こそが確実性を担保していたのである。
当然、武力を背景にアレコレと言ってくる隣人に不満を持っていた支那は他の列強と関係を深めていく。それがアメリカであり、ドイツであり、ソ連であった。
アメリカはラスト・フロンティアを自分の所有物と考えていた。そして支那の指導層及び財界はアメリカを呼び込んでいた。しかし、自国民が収奪されようが彼等にとっては無関係であった。ソ連は思想的に対立し、同時に旧世界の破壊を邪魔する日本への対抗から国民党と共産党にそれぞれ支援を行い、合作を誘導していく。
大日本帝国はこれらの動きに地域の不安定化に国家的利益の侵害と考えていった。そして、限界まで張り詰めていた緊張の糸が切れたのがこの37年であったと言えるだろう。
しかし、それは史実での動きに過ぎない。
この世界でも米ソの行動はそれほど大きな違いを見せない。しかし、大日本帝国は違った。満州を確保し、英独仏を抱き込んで北支を分割して実質的に植民地化すると北支以外の支那からは実質的に手を引いたのだ。
結果的に上海・南京などの中支地域は空白となりここにアメリカ資本が流れ込み、実質的に植民地化が進んだ格好となった。しかし、これは大日本帝国が両足を突っ込んだ棺桶にアメリカ合衆国が片足を突っ込んでしまった格好になったと言える。
片足を突っ込んだ棺桶とも言える中支地域はアメリカ資本の進出で驚異的な経済成長を遂げていた。これは国民党政府に多額の税収をもたらすこととなったが、それと同時にアメリカ本国への富の流出を促したのである。それは支那人民の富が吸い取られたということであった。
しかし、そこには裏社会を通じて阿片を持ち込んで銀と銅を吸い上げている大日本帝国という存在もあったが、支那人民の憎悪の対象は史実と異なり、直接的に富を奪っていくアメリカ合衆国へ向けられることとなったのだ。
これはそのまま戦後の国共内戦を前倒しした格好となったとも言える。
中華ソヴィエトの敵が史実であれば大日本帝国、戦後は国民党政府だったが、現時点で大日本帝国、アメリカ合衆国、国民党政府と三正面に敵を抱えていた格好になっている。
文字通り泥沼である。誰がどこを向いても敵ばかりである。
その泥沼に足を踏み入れたアメリカ合衆国はフィリピンから渡洋爆撃を行うという文字通りベトナム戦争の様な情勢になりつつあるが、その視点は有坂総一郎、有坂結奈など現代知識を持つ者が結果的にそう思っているにすぎない。当事者は屈服させることくらい容易いことと舐めた対応をしていると言えるだろう。
そして海兵隊は自立を目指して遠征軍の拡大を主張し、これにルーズベルト政権とアメリカ財界は賛同し、ラスト・フロンティアを手中にせんと事変拡大へと突き進んでいるのである。
バタフライ効果とは言ったものである。この海兵隊の行動とその目指した方向性は史実冷戦においてアメリカ海軍が目指したドクトリンそのものであるとも言えた。そしてその源流は大日本帝国のバルカン戦役にあったのだから皮肉なことだ。
しかし、戦乱は支那だけではなく、世界中にあった。
燻っているのは東欧だ。バルカン戦役によってハンガリー王国は失った国土の半分を獲得し、イタリア王国はアドリア海の制海権を完全に確保した。そして、内戦状態であったオーストリア共和国は最終的に崩壊し、帝政派が帝都ウィーンに入城、オーストリア帝国としてハプスブルク家が再登板することとなり、ハンガリー王国と同君連合を再結成したのだ。
ドナウ川流域にハプスブルク帝国が再臨したことは帝国の旧臣たちの復帰とドイツにおける帝政復古の動きを活発化させることとなった。また、中東欧における中小国が再編されたことは文字通り鉄のカーテンを想起せざるを得ない事態へと進展している。
経済相互援助会議がソ連主導で結成され、これにチェコスロヴァキア、ポーランドが参加したことでポーランド回廊、ズデーテン山脈、カルパティア山脈に沿った形で資本主義社会と共産主義社会とが分断された格好となったのである。
特に|オーストリア=ハンガリー《ハプスブルク》帝国の再興はチェコスロヴァキアを東側への急速な傾斜、加担を促すことに繋がった。これは旧|オーストリア=ハンガリー《ハプスブルク》帝国の工業の中心地がチェコ地域であったことから再統合を促す姿勢を示したことに反発したことによる。
再統合によって地域の安定化を目指す中で、再統合を拒否する動きはそのままソ連にとっても都合が良かった。ドイツ・オーストリアへの壁として機能することを期待し、同時にソ連国内で不足する工業製品の調達先としてコメコン諸国はソ連にとって必要不可欠であった。
そして、ソ連にとって仮想敵国との正面はシベリア・蒙古、中東欧だけでは不足であった。スペインで王政が倒れると共和政府に接近し、人民戦線によって右派を弾圧させることで第三の正面を旧世界に突きつけたのだ。
それがスペイン内戦の真相であった。そして、それを悟らせないためにイタリア王国のエチオピア侵攻にも義勇軍を送り込むことで旧世界を攪乱していたのである。
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