ミュンヘン一揆とレンテンマルク
皇紀2583年11月20日 ドイツ=ワイマール共和国
フランス・ベルギーのルール進駐に端を発したドイツのハイパーインフレは11月時点の対ドルレートで1ドル=4兆2000億マルクにまで進行していた。
この状況に8月にはクーノ政権が崩壊、シュトレーゼマン政権が誕生し、ルール抵抗運動を収束に向かわせ、経済の安定と通貨の安定を図ろうとしていた。
新内閣は組閣と同時に通貨刷新と代替通貨発行を計画し、約2ヶ月後の11月15日に地代請求権を本位とするレンテンマルクを発行、1レンテンマルク=1兆パピアマルクとレートが固定され、順次パピアマルクはレンテンマルクに置き換わり、インフレは終息に向かうこととなる。後にライヒスマルクが発行されるが、パピアマルクは一度レンテンマルクに両替した後でないとライヒスマルクに交換出来なかったため、ライヒスマルク発行後もレンテンマルクは流通し続けるのであった。
だが、このレンテンマルク発行に至るまでには紆余曲折があったのだ……。
クーノ政権が煽った民意は燃え上がり、ハイパーインフレを引き起こし、しかし、それでもルール工業地帯での不服従による抵抗は続けられ、国民生活が麻痺するまで継続されていた。
しかし、国民生活が麻痺するにつれ、抵抗運動を続けていた者たちも自身の生活が苦しくなる一方であることから運動への熱意は冷めていき、同時に抵抗運動を煽ったクーノ政権への不支持に傾いていったのである。
だが、主要抵抗運動の拠点であった北ドイツの熱意が冷めていく傾向にあったにも関わらず、南ドイツ、特にバイエルン州ではその熱意は未だに冷めやらぬ状態であり、「11月革命という屈辱の精算」というスローガンが叫ばれ、政治的変革への気運が高まっていたのだ。
ここに中央政府とバイエルン州との政治的方向性の乖離が顕在化したのだ。
事ここに至り、中央政府はドイツ全土に非常事態宣言を発令、占領軍への抵抗運動の中止を指示。だが、抵抗運動継続を唱えるバイエルン州は州首相らは中央政府に抵抗する姿勢を見せ、中央政府とバイエルン州は緊張関係に陥った。
だが、史実通りの展開はここまでであった……。
史実通りであれば、この事態にアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党はバイエルン州政府とつかず離れずといった状態であったのだが、彼らはバイエルン州政府に完全に取り入っていたのである。
結果、バイエルン州の反中央姿勢は史実よりも過激な状態となっていた。だが、州首相やその側近はナチスを完全に味方であるとは認識しておらず、利用すべき対象として見ていた。
バイエルン州と中央政府、バイエルン州政府とナチスという枠組みにおける主導権争いは各地に火種をまき散らすこととなった。ザクセン州やルール地方などで一揆や叛乱の噂が流れ、また、占領軍の支援による住民の暴動なども頻発するようになったのだ。
そして、迎える11月8日……。
ミュンヘン一揆の勃発であった。
ヒトラーらは用意周到に準備し、決起、州政府要人の演説会が行われているビュルガーブロイケラーを完全に包囲すると、ヒトラーの指示の下ヘルマン・ゲーリング率いる突撃隊が館内に突入し要人らを確保した。
館内の掌握が済むとヒトラーは演台に立ちブローニング拳銃を上に向かって発砲し叫んだ。
「静かに!国家主義革命が始まったのだ。だれもここを出てはならぬ。ここは包囲されている!」
ヒトラーは要人たちの生命の安全を保障すると、自身の政権構想を披露し、熱っぽく大袈裟な身振り手振りで演説を行う。
はじめは混乱していた聴衆たちも次第に熱を帯びる彼の演説に心奪われ、合の手を入れるようになり、彼もまたその雰囲気に酔ったかのように応えていった。
ヒトラーが演説をぶっていた間、ヒトラーの側近たちは州政府要人たちの説得を行い、彼らも説得に応じる姿勢を見せた。要人たちが説得に応じたことで気をよくしたヒトラーは演説の最後にこう言ったのであった。
「諸君、ベルリンを、祖国を取り戻そうではないか! 我らの誇りを取り戻すべき時は来たのだ! ジークハイル!」
聴衆たちは彼の言葉に頷くと揃って叫んだのであった。
「ジークハイル!」
だが、彼らの宴は直後に崩壊するのであった。
中央政府はバイエルン州政府と一部政党とその支持者に不穏な動きありという情報を掴んでおり、各地に飛び火する暴動や一揆、叛乱の火種であるバイエルン州を鎮圧するため政府軍をミュンヘン近郊に送っていたのである。
翌9日、ミュンヘン市内に中央政府軍が突入し、応戦体制が整わないナチスとその支持者たちを鎮圧し、同時にバイエルン州政府要人を尽く逮捕拘禁したのであった。
ミュンヘン一揆は史実とは異なる形であったが、概ね、史実通りに終わった……ただ、史実とは異なり、ゲーリングが負傷せず無傷であったのだ……。




