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この身は露と消えても……とある転生者たちの戦争準備《ノスタルジー》  作者: 有坂総一郎
皇紀2596年(1936年)

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アビシニア侵攻

皇紀2596年(1936年)10月3日 エチオピア


 時系列は少し遡る。


 国際世界の視線が支那大陸へ注目している中、イタリア王国は秘かに動員令を発し10個師団相当の戦力を本国からイタリア領ソマリランド及びイタリア領エリトリアへ移駐、9月中旬には動員した戦力を国境線に展開させた。


 元々35年10月に侵攻を開始する予定であったが、戦力の充実を優先する方針を立て、ヴィットリオ・ヴェネト級の就役と戦力化、そして大日本帝国から輸入しようとして日ソ間の緊張の高まりなどの理由で調達が遅れていた九四式軽戦車(CV34)の戦力化に注力していたのである。


 イタリア王国が海軍力の充実と機甲戦力の充実を優先した背景には大日本帝国がバルカン戦役によって海軍戦力の支援の下で地上侵攻を行ったことを戦訓として取り入れていたという事情があった。イタリア海軍が重視したのは艦砲射撃による地上支援だけでなく、航空機による有効な管制射撃で地上の抵抗拠点を破壊しつくしたこと、また、内陸部における航空機からの近接支援を得た地上部隊の侵攻というそれであった。


 特にイタリア陸海軍がバルカン戦役後に研究を重ねていた点が後者の内陸部において航空母艦艦載機からの近接地上支援であった。


 19世紀末期のエチオピア戦争は英仏の介入で失敗に終わったが、「古代ローマ帝国の再興」「地中海を再び『我らが海』に」という民族主義的なスローガンを掲げ、余剰人口の吸収や資源確保のための植民地の獲得および国威発揚を目的とした膨張政策を採る上でもエチオピア再征服は是が非でも達成すべき一大事業であったのだ。


 しかし、彼らのその一大事業の支障となっているものはエチオピアというよりは東アフリカ地域そのものがインフラ未整備地域であったということである。


 そういった場所で一気呵成に首都アディスアベバを陥落させ、同時に抵抗勢力を早期に壊滅させるには電撃的な侵攻が望ましく、それを実現するためには機甲戦力の展開とそれを支援できる近接火力であった。


 だが、機甲戦力は日本製の九四式軽戦車(CV34)や自国製のトラックで代用出来たとしても、追随可能な重砲が殆ど存在していなかった事情が彼らを悩ました。無論、イタリア陸軍はバルカン戦役で投入された試製機動砲に注意を払っていなかったわけではない。


 むしろ、積極的に新造機動砲への更新や既存砲の機動砲改造を進めていたと言える。だが、イタリア陸軍もイタリア王国政府も無限の予算や資源を有しているわけではなく、手持ちの予算でやりくりせざるを得なかった。そうなるとどうしても砲火力の不足が目立つ形となり、電撃侵攻に障害となることを自覚せざるを得なかったのだ。


 しかし、彼らが一つの回答を見出していた。


 そう、バルカン戦役の陸空一体協同作戦(エア・ランド・バトル)であった。不足する火力を航空機による事前空襲によって補い、撃ち漏らした敵拠点や敵火砲を地上部隊が有する機動砲や戦車などで対処するというものである。


 これならば現時点で不足する戦力を補いつつ侵攻速度を落とすことなく一定の支援火力を担保出来るという考えだった。無論、それでも不足はするが、相手は格下の非文明国であり、首都陥落と逐次抵抗拠点を潰すことで戦争終結までは十分に対応出来ると割り切っていたのである。


 いや、むしろ彼らはこれを機会にこの新しい戦闘教義(ドクトリン)がどこまで通用するのか確かめてみたいと思っている節さえあった。


 だが、それは何も戦車やトラック、航空機だけあれば良いというモノではなかった。あくまでそれらは主役であり花形と言っても良いが、それを支えるプラットフォームがあるからこそ実現出来ると彼らもまた理解していたのだ。


 日伊の軍事協力関係は伊勢型戦艦の譲渡以来、非常に良好な関係を築き、軍及び軍需企業だけでなく他の民需企業でも良いパートナーとして関係を発展させつつあった。だが、ベニト・ムッソリニ(ドゥーチェ)もこれが行き過ぎると他の列強との関係を悪化させかねないと考えていた。


「実は我々は航空母艦の研究とその導入を考えているが、ノウハウがない。貴国が保有するが、排水量の割に搭載機が少ないイーグルを出来れば貸与ないし譲渡していただけないだろうか、チャーチル卿には是非その仲介をして戴きたい」


 ムッソリニ(ドゥーチェ)は34年年末に発生したエチオピアとの国境紛争(ワルワル事件)において大英帝国側との交渉の過程で親ムッソリーニ的な態度であるウィンストン・チャーチルに仲介を水面下で打診している。


 英仏側は国境紛争(ワルワル事件)については国内世論と政府内部の慎重論からイタリア側に自重するように要求し、ムッソリニ(ドゥーチェ)は英仏の圧力に屈することで紛争は解決の方向に向かったが、その裏でチャーチルを動かしエチオピア再侵攻(来たるべき本番)への備えとして実利を取るべく画策していたのだ。


 英仏もイタリア側の不満をいくらか和らげる必要性が認識していたこと、そして戦力価値としてはそれほど高くない空母イーグルの譲渡で手を打てるならと表向き廃艦処分に伴うスクラップ売却、そして鋼材の入手という体裁を取った上での譲渡を行うこととしたのだ。


 無論、これにはフランス側の不満もいくらか出ていたが、政変が続き政情不安のフランス政府にとって問題を長引かせるくらいなら黙認してしまう方が良いとエチオピア国内におけるフランス権益を将来にわたって侵害しないという空手形によって国内向けのアピール材料として手を打ったのであった。


 スクラップ売却という体裁のために空母イーグルは武装をすべて撤去する改装を受けた上で自力回航されてジェノバ港へ35年6月に到着、そこから1年に渡る改装工事とノウハウ取得が行われることとなり、再就役したのは36年8月のことであった。


 エチオピア再侵攻(来たるべき本番)を1年も遅らせたことで準備万端に見えたが、ムッソリニ(ドゥーチェ)は他にも隠し玉を用意している。むしろ、彼にとって空母旧イーグル(インゴイアーレ)は目眩ましでしかなかった。本命はむしろ隠し玉の方であったのだ。


 ムッソリニ(ドゥーチェ)が用意した本命、それは駐日大使館付きの駐在武官を介して報告があった揚陸艦であった。駐日武官が満蒙戦線への陸軍物資輸送についての報告で全長100m程度の全通甲板を持つ輸送艦の見学を許可され、これについての考察と見学の記録を本国へ送っていたのであるが、この記録がムッソリニ(ドゥーチェ)とイタリア軍中枢にとってまさに渡りに船と言った塩梅であった。


 その記録にはブロック工法による商船を基礎としているもので、空母と同じ格納庫を持つが、ここには兵員室と輸送機材を保管可能となっていて、前後のエレベーターによって最上甲板と格納庫へ出し入れ可能であること、その際には車輪付き鉄製パレットをトラクターで荷役すること、また、そのトラクターそのものを揚陸すれば港湾施設における荷役も非常に便利であること、全通甲板には多数の上陸用舟艇(大発)が積載ていること、また起倒式デリックが複数甲板脇に配置されていることが記されていた。


 これはまさにイタリア軍首脳がエチオピア再侵攻(来たるべき本番)において重宝するであろうこと、そしてこういった縁の下の力持ちこそが必要なものであることを瞬時に理解したのである。特に港湾設備の貧弱なイタリア領の植民地では戦時だけでなく平時においても効率的な揚陸/荷役が可能であることがイタリア軍首脳にはとても魅力的に映ったのである。


 だが、この時、大日本帝国、特に帝国陸軍はさらに効率的な陸軍特殊船やRO-RO船を秘匿していたが、その陸軍特殊船やRO-RO船を秘匿する上でも敢えて多少効率が悪いデリック荷役式のそれ(LO-LO船方式)を秘密解除して列強との騙し合い化かし合いを乗り切っていたのだ。


 しかし、これでも従来の貨物船を利用した方式での揚陸/荷役よりも遥かに効率的なことは間違いなく、イタリア軍にとっては有望な新兵器となったのである。


 そして何より魅力的だったのは商船構造で尚且つブロック工法であったことから工期が3ヶ月半と短いことであり、長崎香焼島に本拠を構える川南工業が帝国陸軍の紹介で受注に応えられると好感触を得ていたことだった。


 また、最上甲板がフルフラットであったことから100mと短いものではあったが滑走路として活用可能な余地があったことだ。また、火薬式カタパルトを使うことで限定的だが発艦促進能力を得ている。


 これらの能力はイタリア軍がまさに求めていたものを完璧に応えていたことでエチオピア侵攻を行う前準備の段階で非常に効果的に運用されることとなり、イタリア本土からエリトリア及びソマリランドへ部隊輸送に大いに活躍したのである。


「アディスアベバへ向けて進軍開始!このアビシニアから非文明的な奴隷制度を廃し、文明的な営みを与えるべく行動を開始する。これは聖戦である」


 ピエトロ・バドリオ元帥率いるイタリア王国軍はエリトリアに配された7個師団、ソマリランドに配された3個師団へそれぞれ進撃命令を下したのであった。

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― 新着の感想 ―
[一言] ついに2年遅れで始まった第二次エチオピア戦争。2年遅れで始まった事により、伊勢型戦艦2隻に加えて、イギリスより購入した旧式空母や日本製揚陸艦、94式軽戦車からなる機甲部隊と、エチオピアを一蹴…
2023/01/05 13:38 退会済み
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