杭州湾事件
皇紀2596年11月15日 中支那方面
ウィリアム・ハルゼー・ジュニア海軍大佐が座乗する空母サラトガとその指揮下の平甲板型駆逐艦で構成される第1任務部隊は交代で改装で行いつつも上海沖で遊弋し必要に応じて海兵隊の要請に従って対地支援を行っていた。
海兵隊がさらに増派され戦線を拡大していくにつれて、1TFの出撃の回数は確実に増えていき、沿岸地域から次第に内陸へとその作戦範囲は拡大していく。
時には長江流域の怪しい船舶への警告攻撃や勢力圏内の巡察飛行など任務はさまざまであるが、東シナ海上での海賊行為などへの対処もその任務に含まれ、ハルゼーはその現場指揮官としてこれらに対処していたがその心労は如何ばかりであっただろうか。
海兵隊の活躍によって赤化ゲリラとシンパのゲリラ活動が減少傾向にあるとは言えども、アメリカ人およびアメリカ資本への被害はゼロにはなっていない。そればかりか、海兵隊の影響圏以外は赤化ゲリラや反米ゲリラが跳梁跋扈している。
「kill Chinkie, kill Chinkie, kill more Chinkie. You will help to kill the yellow bastards if you do your job well.」
その結果、ハルゼーは旗艦サラトガの食堂に横断幕を設置してゲリラと支那人への敵愾心を露わにしていた。
強引なラスト・フロンティア開拓を推し進めるアメリカの側にも問題があるが、それを許容している蒋介石の国民党政府もまた支那人民にとっては面白くない存在であり、非協力的態度を示されている。
だが、国民党支配地域の経済は実質的にアメリカ資本の影響下にあり、民族資本は尽く合弁や乗っ取られていることで、日用品に至るまでアメリカ系企業の商品で溢れ、それを買わねば生活がままならない状態になっていた。
どうにもならない現実に対して、支那人民が出来るのは積極的な抵抗か消極的な抵抗のどちらかでしかない。前者はアメリカの敵であり、同時に赤化勢力にとっては引き込みやすい存在でしかない。当然、彼らの未来は陸戦で掃討されるか、空爆で粉砕される未来しかなかった。後者であればサボタージュや不買運動という形で抵抗を示すが、結局は生きるために面従腹背を強いられることになる。
結局のところ、アメリカが介入すればするほど敵が増えるという悪循環であった。だが、一度踏み込んだ以上は成果を挙げなくてはならない。負けていないのに撤退など出来はしないのだ。
倒すべき明確な敵がいないが、だが、其処彼処に敵はいるという状態に介入から半年も経つと現地部隊は誰しもが理解していたが、それでも進むしかなかった。なぜなら、敵が涌いてくるから。
そして、苦しいのは赤化ゲリラ側も同様であった。物量や陸海空立体でローラー作戦を実施するアメリカ軍に対して有効な反撃をすることが出来ず、じりじりと山間部へ追いやられている状況であり、支那人民も赤化ゲリラ側の物資徴発と貢納にいい加減不満が蓄積していたこともあって、協力が得られにくくなっていたこともありジリ貧になっていたのだ。
ここらで目に見える形で一矢報いて、反米の炎を燃え上がらせる必要性に赤化ゲリラ側は迫られていた。これは無論、延安に籠る中華ソヴィエトからの指令によるものであった。指令に歯向かうものはその場で処断され、中華ソヴィエトの政治将校が代わりに陣頭指揮を執ることで更に強権的に反米攻勢に出るほかなくなっていた。
11月9日に国民党軍の赤化シンパが反乱を起こし、杭州にある海軍基地から魚雷艇を奪って出撃したことで事態は一層混迷の度合いを増すこととなる。
9日深夜、洋上補給と休養のためタンカーと給糧艦が横付けされた平甲板型駆逐艦が杭州湾に停泊していたが、これに対して魚雷艇が搭載していた魚雷を発射し、4本中2本がタンカーへ命中し、大爆発するとともに炎上し、平甲板型駆逐艦もその煽りを受けて大破炎上するという事件が発生した。
この杭州湾事件はアメリカ合衆国政府の国民党政府への不信感を強めることとなった。
即日、南京のアメリカ大使館に国民党政府から謝罪の特使が派遣されたが、文字通り塩を撒かれて追い返されるといった状態であった。
「合衆国政府は国民党軍を信用出来ない。国民党政府には直ちに軍内部の赤化分子の摘発と浄化を行うことを求める。また、この賠償責任は当然国民党政府にあるものとし、杭州を保障占領し、国民党海軍の艦艇を全て接収する」
このアメリカ合衆国政府の強い態度とそれに伴う軍事行動によって、アメリカ軍と国民党軍との間に戦闘が発生することとなったが、統制された軍隊と野盗同然のゴロツキ集団とでは相手とならずあっという間に蹴散らされることとなった。
だが、これは結果として支那人民のアメリカ軍に対する感情を多少は改善する効果があった。元々、国民党軍の野盗同然のそれに支那人民も迷惑をしていたことでそれを撃ち破ったことで一種の解放者的扱いをされたのである。
しかし、アメリカ軍にとっては何時寝返るかわかったものじゃないと警戒を解くことはなかった。それどころか、徹底して武装解除を行うと同時に、杭州市内に潜伏した便意兵と化した残党狩りを行ったのである。これによって杭州市内では市街地戦が其処彼処で行われ、市街地の殆どを焼失する結果となったのであった。
最早、ここまでくるとアメリカ合衆国は誰と戦っているのかすらわからない状態となっていたのだ。ただ、同様に支那人民もまた、国民党、共産党、赤化ゲリラのどれが味方なのかわからないという状態に陥っていた。




