海兵隊の拡大<1>
皇紀2596年10月1日 中支那方面
1936年7月、大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトの炉辺談話から始まるアメリカ合衆国の支那大陸への介入は次第に混迷の度合いを深めていった。
アメリカ合衆国は中支那方面において鉄道権益を独占し、その鉄道沿線に入植、広大なプランテーションを築き、都市近郊にはアメリカ本土並みの大規模工場が進出させていた。アメリカ資本による支那市場の浸透独占を狙ったものであることは誰の目にも明らかであったが、それを容認していたのは長江流域以南を支配する蒋介石率いる国民党政府そのものであり、彼の政権を維持するのもこのアメリカ資本が挙げる収益からの膨大な資金によるものだ。
ルーズベルトと蔣の関係がズブズブであるのは誰の目に見明らかで、蔣夫人である宋美齢は訪米する度に巧みな英語での演説を行いアメリカ資本の支那への投資を訴え、また同時に北支那や満州を影響圏に収める大日本帝国を名指しで批判し、同時に大日本帝国と共犯関係にある大英帝国やインド式植民地経営を推し進めるドイツもまた中華世界への侵略者として非難していた。
フェアであることを求める気質のアメリカ社会には、宋の主張は耳障りが良く、また列強の思惑によって世界で孤立しつつあったアメリカ合衆国という立ち位置からも同じく列強に苦しめられる存在として共感を呼んでいたのだ。
尤も、アメリカ合衆国が列強の思惑で孤立しているのは半ば自業自得であったが、当のアメリカ人たちにとっては大日本帝国や大英帝国がブロック経済によって世界市場からアメリカ製品を締め出している様に見えているだけに彼らのやり場のない怒りは自国経済の低迷と連動して蓄積しつつあった。
しかし、蔣率いる国民党政府の支配領域ではそんなアメリカ合衆国を歓迎する姿勢を見せ、自国への投資と同じ境遇にいる仲間だとアピールしてくることでアメリカ世論にとっては非常に心地よい存在であったのだ。
だが、そんな蜜月関係も長くは続かなかった。
アメリカ資本の工場へのテロ攻撃や焼き討ち、略奪に始める抗米運動の高まりがアメリカ世論の支那幻想を撃ち破ることとなったのである。フェアであることを求めるアメリカ社会にとってそれは裏切りであり、そして挑戦であった。
そして同時に蔣の国民党政府もまた支配領域内での反米、抗米意識の高まりと同時に浸透しつつある赤化勢力のそれに手を焼いていた。彼らにとってアメリカ企業との関係は良好であることこそ政権の安定を意味する基盤であっただけにアメリカに手を引かれては困るからであったのだ。
ルーズベルトに泣きついてきた蔣は必死に自分たちの関係は強固な友情で結ばれていていることを訴え、同時に抗米勢力の打倒のあかつきには支那奥地の開発権の優先提供や対日基地提供などを手土産に介入を求めてたのでる。
無論、ルーズベルトも迫る大統領選挙を勝ち抜くためにも実績を積み上げる必要があり、また自分の裏庭と思っている支那の平定こそ自分を支援する財界勢力への手土産となることをよく理解していただけに介入する口実を欲していたのだ。
両者の思惑が合致し、そして海兵隊やフライング・ドミネーターズの投入が可能になると独立記念日に行動を開始したのである。すなわち、支那本土渡洋爆撃である。
試作機であるYB-17を改造して長距離爆撃行動が可能としたYB-17Cは戦闘半径2500kmというそれを達成したことで、フィリピン・クラークフィールド基地から長躯南京周辺までを爆撃圏内に収めることに成功した。
このYB-17Cを中核とするフライング・ドミネーターズはアメリカ合衆国が打ち出した戦略空軍決戦思想を体現したものであり、その先駆けとなったそれであったが、それ故にかなりの無理をしていた。
元々最大5.8tの爆装、戦闘半径1400㎞というYB-17から航続性能を延長するために爆装は2tまでに制限し、実際の運用では更に減装し1tまでとした上で、対空機銃とその銃弾を全部撤去し軽量化したことで反撃性能をなくし、更にそれでも航続性能に不安があることから防弾設備をも撤去し徹底した軽量化を行っている。
文字通り空飛ぶ棺桶状態になっているが、それでもアメリカ陸軍航空隊にしてみれば相手は戦闘機を持たない非文明国相手であり、高高度を高速飛行することで反撃のすべはないことで割り切った形を取っても支障がないと判断されていたのだ。
実際、蔣は自身が持ちうる航空戦力を露払い役として提供していて護衛の任を買って出ていたことで、防御に関してはそれほど深刻になる必要がなかった。尤も国府空軍の戦闘機ではYB-17Cの飛行速度に追い付けず役に立ってはいないのだが、それでもないよりはマシであり、仮に赤化勢力が戦闘機を飛ばしてきても国府空軍が相手しているうちに逃げ帰ることが出来たのである。
また、地上では海兵隊が張り切っていて、増援を含めて4個旅団相当の戦力が上海周辺に上陸すると西部開拓時代と同様にインディアン狩りの再来とばかりに赤化勢力とその協力をした村落を次々と血祭りにあげていったのだ。
海兵隊が通り過ぎた後は文字通りぺんぺん草も生えないといった状況でご丁寧にブルドーザーまで持ち出して村落の跡地を綺麗に整地していったのである。
その状況を取材していた在上海の東邦経済新報の記者は東京本社へ取材原稿を送った際にこのように記していた。
「米海兵は赤匪、共匪を見つけたるや、重砲、迫撃砲で制圧し、機関銃によって逃げ出したる兇徒を滅多打ちとした。そうこうしているうちに掃討が済みし頃、いずこから均土機がやってきては崩れたる家屋や瓦礫を均していった……まるで戦国の世で徳川家康が一向一揆に対して行ったそれを見ている様であった」
海兵隊は残虐の限りを尽くしているように思えるが、実際にはそうではない。彼らも鬼でもなければ畜生でもない。最初は紳士的にふるまっていたのだ。
だが、昼に降伏や協力を申し出ていながら夜には海兵隊の駐屯地を襲撃してきたことで埒が明かないと判断し、掃滅することとしたのである。そもそも、ジュネーヴ条約など戦時国際法を無視している支那人相手に文明人としてのモラルなど持ち出すことが馬鹿らしくなったと言っても良いだろう。
文明人としての振る舞いを見せない非文明人ならば過去に彼らがしてきたようにインディアンと同様に駆逐するべき対象と看做すほかなかった。
一度割り切ってしまった彼らの仕事は好調に推移していく。降伏を勧告し、その条件を一つでも満たさなかった場合は敵対行為と看做して徹底的に掃滅するだけだった。捕虜など取る必要もなかった。ゲリラは捕虜の待遇を受ける資格がないからだ。鉄の暴風が過ぎ去る頃にはそこは綺麗に整地された空き地が出来上がり、測量がされ、新たなプランテーションの候補地としてリスト化されていくのである。
また、鉄道と隣接する地に軍用飛行場と海兵隊駐屯地が整備され、縦深陣地が周囲に設けられ、ここに海兵隊の航空戦力が展開されることとなった。
アメリカ海軍が航空母艦を建造しない方針を採ったため必要性が失われてしまったことで用途廃止となりかけていた急降下爆撃機のSB2Uヴィンディケイターは海兵隊が地上支援用として望んだことで管轄を変更して生きながらえることとなったが、これの先行試作と初期量産機が空母サラトガによって輸送されてきたことで海兵隊初の航空戦力として配備されたのである。また、空母サラトガに配備されたばかりの艦上戦闘機F3Fフライングバレルもまた貸し出しという形で海兵隊に属することとなったのだが、これによって海兵隊が海外遠征軍としての能力を格段に向上させたのである。
クリエイター支援サイト Ci-en
有坂総一郎支援サイト作りました。
https://ci-en.dlsite.com/creator/10425
ご支援、お願いします。
ガソリン生産とオクタン価の話
https://ncode.syosetu.com/n6642hr/
鉄牛と鉄獅子の遺伝子
https://ncode.syosetu.com/n9427hn/
こちらもよろしく。




