Bf110
皇紀2596年6月21日 ドイツ租借地:山東半島
ドイツによる実効支配が進んでいき、欧州から好待遇を餌に渡航しきたユダヤ人や新天地で一旗揚げようと考えたドイツ人移民などが入植してきたこともあり、山東半島は次第にドイツ風の名に改められていた。
例えば主要な都市である青島はオストケーニヒスベルクと改称され新領土総督府が置かれる首府として改造が進められている。無論この都市改造の発案はアドルフ・ヒトラー首相自らのそれであり、彼はベルリンの首相官邸において都市模型をつくらせて指揮を執っている。
ヒトラーはこの都市改造に自身のお気に入りの秘蔵っ子であるアルベルト・シュペーアを起用したのだが、彼の主張する廃墟価値の理論(Ruinenwerttheorie)にヒトラーが同調したことからシュペーアはナチ党の党主任建築家としてその地位を確立していった。
「今後新築されるすべての建築は、数千年先の未来において美学的に優れた廃墟となるよう建築されるべきで、古代ギリシア・古代ローマの廃墟がその文明の偉大さを現代に伝えているように、ナチスドイツが残す廃墟は第三帝国の偉大さを未来にまで伝えるべきものであるべきだ」
シュペーアは廃墟価値の理論(Ruinenwerttheorie)を主張するにあたってこの様に熱弁し、ベルリンの大改造を含むゲルマニア計画においてドイツ国家とドイツ民族の優位性と足跡を印すべきと訴えていたが、そのゲルマニア計画の一環としてオストケーニヒスベルク(青島)もドイツ国家が領する新領土の首府として相応しい都市へと改造することで国威を示そうとヒトラーに促していた。
「シュペーア君、この計画は素晴らしい。新領土を再び得たことと永続して領有するにあたって我らの偉業を後世に伝えうる素晴らしい建築を期待する」
新古典派建築を基本とする新総督府庁舎、総督官邸、オストケーニヒスベルク中央駅が真っ先に起工されると35年中に突貫工事で完成し、36年に入るとオストケーニヒスベルク空港ターミナルビルが起工されこれもまた37年初頭に完成見込みとなっている。土地の大規模収用も同時に実施され、雑多な住居は更地にされ、旧市街地の区画整理も順次実施されていった。
都市改造に伴って追い出された住民の多くはそのまま炭鉱送りとされた。また、製鉄所や各種工場が建設されている港湾地区や郊外地区に集合住宅が建設され、工場労働者となった者たちは移住させられたのである。
こうしてドイツ風に改造が始まると新領土鉄道沿線では次第にドイツ風の建築物が建設されていき、東洋風の景観は徐々に失われ、都市における優越権を確保していったことで政府からの押しつけという形ではなく、住民の意思という形で各地の地名が変更されていった。その代表格が済南であり、ここはノイエヴォルフスブルグと改名されたのである。
そうなると新領土鉄道と相互乗り入れする日系の南満州鉄道、日欧合弁の華北交通もドイツ名へと表記変更され、発行される時刻表や地図もそれに沿った形となっていった。
文字通り、山東半島から支那文化を駆逐していくそれだが、奪われる側からすればたまったものではない。しかし、それに対抗する力を彼等は持ち得ていなかった。それは東インド会社方式による階層化が大きく役立っていたことの証明だったと言えるだろう。
そして収用された土地は市街地至近に飛行場設営を可能とし、オストケーニヒスベルク空港が建設された。これにはヒトラーと言うより国会議長にして航空大臣であるヘルマン・ゲーリングの意向が大きく反映されていたと言える。
この時期、ドイツ航空界はヴェルサイユ条約の制限事項の殆どが有名無実化と撤廃がされていたこともありかなり自由に航空機開発が可能となっていたのだが、それでもドイツ本国においての兵器開発は周辺国の不要な疑念を生むという事情もあって、表向きは活発化させてはいなかった。
そこで長距離戦闘機、長距離爆撃機の類いを開発するに際して、新領土という国際的な位置づけが曖昧なこの地で比較的自由な兵器開発を行うことを考えたのであった。これには国防軍や参謀本部なども賛同し、兵器製造メーカーでもあるクルップ社やヘンシェル社などが既に進出していることもあり、産業界としてもゲーリングの意向は好都合であったのだ。
また、日独関係が良好でもあり、場合によってはドイツ製兵器を日本へ輸出して利益を出そうという目論見もあった。特にエルンスト・ウーデットが上手く交渉をまとめた四発大型機の技術導入は日独両国にとって有益なものであったが故に、ドイツ側で開発が進んでいるフォッケウルフ社のFw200、ドルニエ社のDo19、ユンカース社のJu89、Ju90などの四発旅客機の売り込みとライセンス生産に繋がる可能性もありドイツ航空産業界にとって好機であった。
結果、オストケーニヒスベルク空港に隣接する形で各航空機メーカーの工場や研究施設が建設されたのである。そして、そこには主力戦闘機選定でつまずいたバイエルン航空機製造も含まれていた。
バイエルン航空機製造のBf109はハインケル社のHe112との競作で最終的に制式化されたものの不安定要因もあり想定よりも受注が少ない状態で改修と性能向上を求められ、そのことでシェアを失っていた。
しかし、爆撃機に追随し護衛、敵迎撃戦闘機を制圧、あるいは強行突破し強行偵察や地上攻撃を行い得る多目的長距離双発戦闘機の開発することを目的とする"戦略重戦闘機開発仕様書"をドイツ航空省が指示したことでその開発を任されたことで一定程度のシェア回復の目途をつけていた。
バイエルン航空機製造は主力戦闘機で失ったシェアをこの双発複座戦闘機開発で取り戻そうと画策した結果、ゲーリングの裁可によって開発中であったが受注枠を確保していたのである。
そしてその開発そのものは波乱含みで始まった。
メッサーシュミット技師はドイツ航空省からの開発方向性を無視して「最小の機体に最強の発動機」というBf109と同じ開発コンセプトをぶち上げたのだ。これにはドイツ航空省は難色を示し、ゲーリングでさえも渋い顔をしていた。しかし、メッサーシュミットは交友関係のあるウーデットを仲介してゲーリングを説得させ、この開発方針とその試験機納入を承諾させたのである。
そのお陰で開発に横槍が入らなくなったことを幸いにBf109の改修を放置してこの新型双発複座戦闘機の開発に邁進した。
開発は順調に進み、競作ライバル機が機体の大きさを原因として戦闘機としての適性に欠く結果となったこと、Bf109を上回る最高速度を叩き出したことからゲーリングの高評価を得てその採用は試験飛行時点で確定し、即時発注が掛けられたのである。
だが、バイエルン航空機製造の生産規模が低いこともあり、初期ロットはオストケーニヒスベルク(旧青島)に進出しているヘンシェル社に製造が委託され、バイエルン航空機製造にはドイツ本国における工場増設と性能向上と試作機の改良を優先することが命じられ、工場増設の補助金を得たことで製造ラインの拡充をすることが出来、また性能向上型の開発と同時に発動機の優先供給を受けたことで第二ロット以後の製造が自社で実施出来るようになった。
万々歳といった調子のバイエルン航空機製造であったが、その新型双発複座戦闘機Bf110は遠く離れたオストケーニヒスベルク(旧青島)で量産され、そして、その初期ロットこそが極東における一つのエポックメイキングとなったのは36年7月以後のことである。
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