ラストフロンティアの実態
皇紀2596年 中支那方面鉄道情勢
北支において日英独が各主要鉄道幹線を実質的に牛耳ることで支那人民ではなく、自国権益のための経営を進めていたのと同様に中支においてもアメリカ合衆国が自国資本における独占的経営を推し進めていた。
上海-南京を結ぶ海南線とその支線は蒋介石の北伐で確保された当初は国民党政府の直営になっていたが、アメリカ合衆国との結びつきを強めていったことからドル借款などを経てその経営権がアメリカ企業へと移っていったことでセントラル・チャイナ・パシフィック鉄道(SCPR)として再編されその本社は上海のアメリカ租界内に置かれたのであったが、これらに出資していたのはアメリカ本国でも覇権を争うペンシルヴァニア鉄道(PRR)とニューヨーク・セントラル鉄道(NYC)であった。
東海岸と五大湖を結ぶネットワークを構築し覇権を争うこの二社が共同出資している背景にはアメリカ本国経済の停滞によって輸送実績が低迷している事情があったことが大きく影響していたが、同時にサービス向上と市場競争によって続々投入される新型機関車及び新型客車によって代替される旧式車両をいくらかでも現金化したいという本音があったのである。
特にNYCがPRRに対抗するために増備を始めたJ1形蒸気機関車によって従来型機関車に余剰が生じていたこと、また更に増備を始めたJ2形蒸気機関車、開発中のJ3形蒸気機関車の将来的な増備を考えると保有機材の整理を行いたい事情があった。
また、それはPRRにとっても同様であり、K4形蒸気機関車の増備と北東回廊の電化によって余剰化した旧式機関車の淘汰を必要としていたこともあり、PRR及びNYC両社の思惑が一致しSCPRへ現物出資することで轡を並べることとなったのだ。
だが、それは36年から始まるPRRとNYCの闘争の序曲でしかなかった。
しかし、それは荒廃を極めていた中支地域の鉄道事情を劇的に好転させる結果となったのは言うまでも無い。比較的状態が良い中古機関車が大量に上海に陸揚げされるとこれらは数日で運用可能な状態にされ、早速保線のために駆り出されることとなったのだ。
内戦によって荒廃している海南線を順次、軌道の復元と駅設備の復旧させることで営業可能な状態にしていったことで概ね34年に入る頃には復旧が終わっていたが、これはアメリカ大統領選挙でフランクリン・デラノ・ルーズベルトが勝利したことによって対支那投資が増えたことと連動している。
「チャイナは我々のラストフロンティアである」
ルーズベルトの大統領就任以前は大規模な投資が行われるまでではなかったが、彼の就任によって明らかに投資額は増え続けるのだが、これはアメリカ財界にとっては本国経済よりも旨味が大きいビジネスという考え方によって進出しているに過ぎない。だが、投資額の伸びはそのまま支那から得られる利益によって進出した企業の株価が押し上げられることで見せかけの証券市場の活性化につながっていたのだ。
本国経済におけるニューディール政策が実質的に成果を生み出せない中で見かけではあっても株価が上がり始めたことはルーズベルトの支持率を押し上げることに直結し、味を占めた彼等は更に支那投資と収奪に依存していくことになった。
これによって支那奥地への進出と点在する鉱山の経営権の確保が進んでいったことから上海-杭州-寧波の海寧線がサウスイースト・トランスポーテーション(SET)とされて都市圏輸送を担うこととなるが、35年に入ると杭州-南昌-長沙を結ぶ杭長線と南昌-九江を結ぶ支線をこれに統合している。この地域はタングステンをはじめ鉱物資源に恵まれる地域でもあったことでアメリカ企業がこぞって進出している地域でもある。
SETにはユニオン・パシフィック鉄道(UP)が主に出資しているが、ここには機関車メーカーであるアメリカンロコモティヴ(アルコ)社がUPへ機関車を供給している関係による。アルコにとってUP同様NYCも得意先ではあったがアメリカ本国経済が上向かなければ発注が先細ることは明白であったことから大陸横断鉄道であるUPと組んでラストフロンティアにおけるシェア拡大を狙ったことがその背景にはあった。
山岳路線を抱えるSETでは貨物需要が平坦路線のSCPRよりも多くなる傾向と経営判断がなされていたが、アルコ社は鉱山鉄道の開設が進めばそれらの車両需要の拡大が期待出来ることからこれ以上ない商機と考えていたのだ。実際に35年の車両メーカーであるアルコ社とボールドウィン社の出荷実績は数年来の規模となっているが、それらを支えていたのは対支那出荷実績であったのだ。
鉄道が発展することでアメリカ企業が生産した商品がその沿線に流入していき、同時にそれは駅周辺地域のアメリカ資本による独占と都市開発を促すこととなっていく。駅前にショッピングセンターが設置され旧来の商店を押し潰していくことで都市の経済がアメリカ一色に染まっていくのにさほど時間は掛からない。
都市近郊の農村地帯も同様にアメリカ人地主による買い占めによって機械化とプランテーション化が進められていく。安価で広大な農地を得ることが出来ることがアメリカ本土に伝わると数台の農業機械と共に移民してくるアメリカ人農民が増え始めたのであるが、これもまた鉄道によってフロンティア開拓というそれによる効果であったと言えるだろう。
この数年で中支地域は事実上のアメリカ植民地と化していったことで急速に反米感情が成長していったのだが、当のアメリカ人はそれに気付いていなかった。それどころか、収奪の度合いを深めていったのである。
そして遂にそれが爆発する時が来るのであった。




