ハバロフスクに日は落ちて……<後>
皇紀2583年10月3日 ハバロフスク
そして、27日。
壊滅した極東共和国軍に援軍が送られ旧第一要塞線に到着したのである。2個師団と1個旅団というほぼ全力投入だ。だが、これが致命的な隙を作ったのである。
コムソモリスク=ナ=アムーレから銀輪電撃戦を開始していた真崎兵団がついにハバロフスク前面に到達したのだ。真崎兵団は真崎甚三郎少将率いる第1旅団とサガレン州派遣軍から借りてきた第4旅団で実質的に1個師団相当の戦力である。
真崎は数の上で圧倒的に優位であることを自軍兵士に訓示したうえで28日未明からの夜間奇襲攻撃でハバロフスクに残る1個旅団相当の敵を討つこととした。
真崎の作戦は功を奏した。事前偵察とコムソモリスク=ナ=アムーレにおいてハバロフスクへ内通者を送り込み十分に情報を得ており、優先目標であるハバロフスク市庁舎と仮政府庁舎を急襲し陥落させた。市内の確保に最低限の兵力を展開させると同時に郊外にある極東共和国軍駐屯地を包囲し、彼らに投降降伏を勧告。
残念ながら彼らの返答は来なかったため、彼らは十一年式曲射歩兵砲の洗礼を受けることになる。
砲弾の雨が降り注ぎ、土煙が湧き上がる。それが薄くなったその瞬間、駐屯地から機関銃による反撃が始まったが、射程外であることから被害はほとんど出なかった。
十一年式曲射歩兵砲は数度に渡って砲弾の雨を降らせ容赦なく敵の抵抗拠点を薙ぎ払う。
敵の反撃が散発的になった段階で試製機関短銃を装備した一団が果敢に突撃を敢行。機関銃小隊もこれを支援し、敵が反撃するのを牽制し、一時間程度の掃討戦の結果、極東共和国軍の残留部隊の尽くが戦死し、ハバロフスクは完全に陥落し、市庁舎と仮政府庁舎に日章旗と旭日旗が翻った。
真崎は市庁舎において市内の有力者を呼び、占領行政の方針を説明し恭順を促した。これも事前に内通者によってある程度浸透していたこともありほとんど抵抗なく受け入れられたが、頑強に抵抗を主張する者たちは憲兵隊によって処理された。
また、戦死せず投降した極東共和国軍の将校数名と極東共和国大統領ニコライ・マトヴェーエフを捕虜兼軍使として南進してビキン付近で浦塩派遣軍と対峙している極東共和国軍に降伏勧告をさせるために派遣したのであった。
そして30日。
軍使としてビキンに派遣されたマトヴェーエフだが、不幸にも司令官であるヴァシーリー・コンスタンチノヴィチ・ブリュヘルによって粛清されたのであった。ブリュヘルはマトヴェーエフ以外の軍使を浦塩派遣軍へ送り返したのである。
「民族と党への裏切り者は粛清した。我らは屈しない。革命万歳!」
ブリュヘルからのメッセージに浦塩派遣軍司令部は頭を抱えた。無意味な消耗戦をしないで済むと安堵していた浦塩派遣軍司令部はこの事態に悲壮な決意をせざるを得なくなった。
司令官立花小一郎大将は居並ぶ幕僚を見渡し言った。
「敵は革命とともに生き、革命とともに死ぬと言っている……介錯してやるほかあるまい……可能な限り苦痛を与えずに済むように……全力で攻撃せよ」
立花は持ちうる限りの戦力を投入して徹底的にブリュヘル兵団を粉砕することを幕僚に指示したのであった。
こうして10月1日から2日の2日間にかけてビキンに各種砲弾が降り注ぎ、完全に町は廃墟と化した。同時にビキンに立て籠もった旧極東共和国軍ブリュヘル兵団も果敢に反撃を繰り返したが、進むも退くも死あるのみの彼らの士気は次第に低下していき、猛将ブリュヘルも万策尽き降伏を打診してきた。
3日正午にブリュヘルは浦塩派遣軍野戦司令部へ出頭し、遂に極東共和国との戦争……シベリア出兵は終幕を迎えるのであった。




