第一次ノモンハン攻防戦<6>
皇紀2596年3月15日 満蒙国境 ハルハ河
「敵騎兵、ハルハ河を渡河、敵新鋭戦車も後続を確認す」
ハルハ河東岸のモンゴル人民軍橋頭堡を監視する篠塚支隊残存部隊から至急電がハイラルの第二方面軍司令部、そして新京の関東軍総司令部へ飛んだ。
九五式指揮連絡機と深部偵察隊からモンゴル人民軍がタムスク基地及びハルハ河西岸に集結しつつある情報を掴んでいたため数日内に再び攻勢が始まると見込んでいたが、思っていたよりも大規模な行動に関東軍総司令部は第二方面軍司令部へすぐに迎撃を指令する。
第二方面軍も想定戦場への布陣を完了し、篠塚支隊による釣り野伏作戦の開始を今か今かと待っている状態であった。
第二方面軍はモンゴル人民軍が占拠しているオボー跡地から後方20km程度にある将軍廟付近を主戦場とし、オボー跡地から将軍廟に至る谷筋の街道において殲滅する計画であった。この谷筋には乾湖や涸川があり、あらかじめ10両の給水タンク車を用いてここに散水し泥濘化させることで行動を阻害する様に仕向けていたのだ。
ここで関東軍は第二方面軍と篠塚支隊へ秘密兵器を充当し、これを用いたのであるが、それは後に判明するので敢えてここでは触れないが、まさに「こんなこともあろうかと」と言わんばかりの代物である。
秘密兵器を受領し、準備万端と言った篠塚支隊だが、実際この時点でハルハ河東岸の要衝であるフイ高地に陣取っていただが、オボー跡地及びノロ高地に陣取るモンゴル人民軍へ発見されるように兵力不足を装う形で後方への退却を実施していた。
無論、これは敢えてハルハ河東岸の守りを手薄にする形で敵の進出を誘引させるためである。結果としてモンゴル人民軍はこの策に嵌まり、重戦車に恐れをなして重砲などの支援を得やすい地域まで撤退しようとしていると誤認し、その誤認識の下で占領地の拡大を狙う好機と判断し、集結させた戦力をそのまま渡河させることとしたのだ。
ハルハ河とホルステン河の合流地点である川又に架橋されたそれを重戦車が渡っていき、その前後を騎兵が固めている。これを第二方面軍も篠塚支隊も邪魔をすることはない。今はまだ雌伏の時と心得ている。
罠に嵌められているモンゴル人民軍ではあるが、全くの不用心であるわけでもなく、重砲はやはり西岸の陣地から動く気配は見られない。いや、むしろ、いくつかの対空砲が見られることからその警戒心はタムスク基地爆撃が大きく作用していると考えられた。
重戦車を警護していた一部の騎兵が渡河を終えるとそのままノロ高地方面へ移動を開始しているが、その騎兵には駄馬も含まれていた。これらは分解されている軽量砲が積まれているようだ。恐らくは確保したノロ高地に据え付けて陣地構築による確保を狙っているのだろう。
川又からの渡河がある程度進行していた頃にフイ高地前面を歩兵と騎兵が渡河し始めた頃合でハルハ河西岸の陣地からの支援砲撃が開始された。
ここからが篠塚支隊による釣り野伏作戦の始まりである。
モンゴル人民軍の砲撃が始まると同時にフイ高地に展開している篠塚支隊残存部隊は二手に分かれて行動を開始する。北方に向かって撤退するのは九四式六輪自動貨車などの自動車化歩兵と牽引野砲、そしてノモンハン・ブルド・オボー跡地付近を掠めるように敵前面を走行し、将軍廟までモンゴル人民軍を誘引する九四式軽戦車と湿地車乙型だ。
九四式六輪自動貨車を中心とする一団はフルンボイル平原の荒野を不整地走行し、戦場後方へ向かう。路外走行性能が高い為、街道を通らずとも行動が可能であるからだが、余計な巻き添えを食わないための分離行動である。独立混成第3旅団主力と戦場後方で合流した後、彼等は釣り野伏作戦の仕上げを担うことになる。
そして装軌車両のみで構成される一団は敵前面を通過し、その存在を誇示して引っ張り出した敵重戦車をそのまま誘引していくことになる。その役割は街道筋を通って敵と鬼ごっこをすることにある。そして、その街道筋が例の谷筋というわけだ。
自軍の渡河と同時に撤退を開始した敵の残存部隊、しかも親衛戦車連隊の装備する重戦車の敵ではないブリキ戦車という獲物をモンゴル人民軍は見逃すことはなかった。
「ここで敵の戦車を壊滅させれば我がモンゴル軍の精強さを示すことが出来る」
モンゴル兵達の士気は高まる一方だ。我先にと手柄争いをするかのように狭い街道筋を篠塚支隊の装軌車両の一団を追いかけていく。ここに集う九四式軽戦車20両、湿地車乙型10両、モンゴル人民軍の戦車が大小合わせて40両、総計70両が一斉に動き出したその様子は壮観だと言えよう。
ただ、やっていることは追いかけっこでしかないのだが、土煙を上げながらのそれは九五式指揮連絡機によって記録動画が撮影され、後に映画ニュースとして上映されることになるが、それに少年達は目を輝かせることとなる。
逃走劇が始まってそれほどたたない頃合であるが、谷筋は泥濘地と化す。逃走を続ける九四式軽戦車は街道筋から外れて南方へと針路を転換して速度を上げて逃げ去っていく。
そんな中、湿地車乙型は本領発揮とばかりに泥濘地・湿地を突き抜ける。その時速おおよそ20km程度。
先頭を走っていたモンゴル人民軍の重戦車は速度で負ける九四式軽戦車を諦め、湿地車乙型に狙いを定め、泥濘を避けて追跡しようと街道筋を走って追いかける。しかし、幅員が狭く路肩から脱輪状態に陥り動きを止めることとなる。先頭が停止してしまったことで、街道を外れて追撃しようとする他の戦車も泥濘に足を取られ身動き取れなくなるか、辛うじて追いかけることが出来る車両も速度が落ちていた。
湿地車乙型はどこ吹く風とその性能を発揮し、あっという間に谷筋を抜けきってしまう。
まさにその瞬間を第二方面軍は狙っていた。
南方へ逃げ去ったはずの九四式軽戦車が反転し、谷の入り口へ舞い戻り逃げ道を塞いでしまったのだ。そして間髪おかず南北の丘陵上から機動九〇式野砲が一斉に火を噴き、泥濘で右往左往していたモンゴル戦車部隊に大口径徹甲弾を釣瓶打ちにして壊滅させたのであった。
この勝利は湿地車乙型という存在があったこと、九四式軽戦車の地形追従性能の高さで成り立った側面が大きい。
指揮を執っていた篠塚義男少将も九四式軽戦車だけだったら他の作戦をとらねばならなかったと回想している。その場合、ここまで完勝出来たかと考えると独立混成第3旅団全滅と引き換えに敵の戦車を壊滅させることが出来ただろうとも回想している。
しかし、これはあくまで第1ラウンドでしかなかったと彼等はまだ知らない。
湿地車乙型 性能要目
全長:7m
全幅:2.5m
全高:2.3m
重量:6.5トン
装甲:12mm(運転台付近のみ)
発動機出力:試製統制ディーゼル発動機150馬力
速度:陸上30km/湿地20km/水上10km
積載:2000kg
牽引:陸上1800kg/湿地550kg/水上250kg
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