派閥抗争
皇紀2596年2月26日 陸軍事情
史実では雪舞い散る帝都を真っ赤に染めた2・26事件のあったこの日、同じように雪は舞っていたが至極平穏な朝を迎えていた。
史実の皇道派グループのような煽動思想家による影響を受けていないこの世界の皇道派は目立った政治的行動を示していなかった。なぜなら荒木貞夫大将が陸軍大臣、真崎甚三郎大将もまた参謀次長として陸軍中央に居たことから彼等を支持する若手将校らが血気にはやる理由がなかったことも影響しているが、矢張り、東北を始め地方の疲弊がなく好景気に沸いている日本経済では維新という名の暴挙に出る必要が無いということが大きいだろう。
ただ、その代わり、対ソ戦争論(北進論)は史実以上に大きい発言力を有しており、長城線以南への進出を控え、その分満蒙への戦力集中と正統ロシア帝国との連携によるバイカル湖方面への圧力を求める声が支配的だった。
その中核を担っているのが皇道派の番頭格となっている小畑敏四郎少将であった。春には中将への昇進が内定しており、今は陸軍大学校校長であるが昇進と同時に参謀本部か関東軍への転任が噂されている。
そして、皇道派との抗争がなくなったこの世界では永田鉄山少将が同じく相沢事件で死亡することなく軍務局長として陸軍省を仕切っている。彼も春の定期人事において中将昇進と同時に参謀本部転任が予定されていた。
これらは真崎の意向を汲んだ荒木の人事方針によるものだったが、小畑が参謀本部か関東軍か未定であるのは小畑の作戦立案能力を活かす場がどちらであるか判断に迷っている点によってであった。逆に永田の場合は軍政においてその真価を発揮すると考え陸軍中央に留め置いているのである。
この世界ではバーデンバーデンの密約そのものが不成立であったことで永田の権力闘争へのそれが史実に比べると著しく抑えられたこともあって小畑との関係は悪くなかった。これはそのまま荒木や真崎との関係が悪化するというそれに繋がらず、結果として統制派の成立する土壌が完全になくなってしまったのであった。
だが、そうなると東條英機中将の立ち位置である。永田を後継して統制派の首魁となった彼はその地盤を受け継ぐことが出来なくなっている。しかし、彼は前世の知見を活かして憲兵隊を完全に掌握することに成功していた。憲兵隊だけでなく、関東大震災以来、内務省にも顔が利く状態になっていたことも幸いし、警察権力の大親分と化している。
また、関東大震災は東條に学術関係、特に東北帝大を中心とする科学者、技術者たちとの結びつきをもたらすこととなり、それはそのまま軍事調査部長の際に人脈を広げる結果となったのだ。軍事調査部長という職を拡大解釈した結果、彼の影響範囲は技術本部を通して財界にまで及んでいた。
そう、東條はその自身の与党、譜代を陸軍内ではなく政財界、学界に求めたのであった。そしてそれは陸軍軍人としてではなく政治家という枠に片足を突っ込んだ形で各界の期待を背負うことになっていくのである。
「話の通らない軍人と違って東條さんは話をすればちゃんと理解してくれるし、勉強してくれて応えようとしてくれる」
「台風や地震における災害出動と支援体制を整えてくれたことで助かる人間が増えた」
こういった声が各界から聞こえてくることで政財界の一部から陸軍次官、陸軍大臣への推挙と東京府のおける国政・地方行政問わず各選挙区からの出馬要請が東條本人の耳に入ることも多くなってきていた。
無論、その裏で東條待望論の糸を引いているのは有坂総一郎や東條-有坂枢軸に連なる政財界の面々である。東條本人もそれを自覚し、与えられた役割を演じていたに過ぎないのである。
例えば、憲兵の親分というのも彼が為すべき指導者、総帥としての一面に過ぎないものであり、徹底して苛烈な取り締まりや捜査を行うというそれを演出している。だが、その一方で不当な取り調べなどもまた徹底して無くす様な姿勢を示していた。
これは憲兵という怖い存在を印象づけると同時に公正な組織運営であると印象づける演出であったのだ。これによって一般市民の憲兵への協力と信頼関係を構築させていたのである。
そして憲兵のイメージ戦略はそのまま内務省の警察組織にも影響を与え、憲兵と同様に嫌われ者になりやすい特別高等警察のイメージアップにもつながっていた。特高警察への信頼感醸成はそのまま赤化勢力の一掃に役立つ効果を生み、不穏分子の摘発に効果を上げていたのだ。
やっていることは以前とそれほど変わらないが、怖い存在から頼もしい社会正義の番人へとイメージアップしたことで一般国民からの評判が変わるモノで組織そのものの士気も上がっていた。
同様に技術本部における兵器開発においても用兵側の無茶振りだけでなく、兵器行政側の理想も反映出来るようになっていた。これはかつて改造三八式野砲が駐退復座機と砲架を中心に故障・事故が相次いだ様な問題を穏やかに解決していくことにも繋がったのである。
これも東條が開発側、技術者側の言い分を聞き届け、同様に用兵側の言い分と照らし合理性がある方に裁定を下す、必要な予算をぶんどってくるという軍事調査部長という職(拡大解釈)を演じたことによって出来た芸当であった。
しかし、それらで「話のわかる東條さん」として信頼を得ていたが、同時に「カミソリ東條」の二つ名も健在であった。
いくつもの案件で東條の質問や求められた説明に正しい回答が出来ない場合は容赦なくズバズバと東條メモに基づく斬り込みが入るのであった。それだけに東條のところに出す資料、要望は出す側がしっかりと準備をしないといけなかったのだ。
そんな陸軍を代表する影響力の大きい将官たちの定期人事が近づいていたことで三宅坂の陸軍省では水面下でのやりとりが続いていたのであった。
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