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この身は露と消えても……とある転生者たちの戦争準備《ノスタルジー》  作者: 有坂総一郎
皇紀2596年(1936年)

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自動車産業の隆盛とヒトラーの先読み

皇紀2596年(1936年)1月 ドイツ国


 元祖自動車の国といえばフランスになるだろう。だが、ガソリン自動車の元祖と本家はドイツであると言わざるを得ないだろう。


 そのドイツ国内には民族資本の自動車メーカーがいくつも勃興し、順調に発展してきたかに見えたが、世界恐慌前後してその命運は分かれるのであった。


 29年に最大資本であるオペルがゼネラルモーターズに買収され、同時期にフォード-モーターがケルンにドイツ・フォードを設立するなど、アメリカ資本による侵略を受け次第に劣勢となっていったのである。


 それはダイムラー、ベンツなども例外ではなく弱者淘汰と適者生存に追い込んでいった。


 この流れの中、有坂コンツェルンはダイムラーとベンツの合併に出資する形で食い込みダイムラー・ベンツ・アリサカとしてドイツ自動車産業に参入した。これにはDB系発動機における開発への介入やそのライセンスに有利になるという判断によるモノで、実際に発行済み株式の34%を確保することで優位性を確立したのである。


 史実よりも資本力が強化されたこともあり、GMオペル連合やフォードに対抗出来る規模を確保出来たのであるが、問題は市場の縮小であった。


 他の民族資本各社も生き残りのために企業合同を目指し、32年にアウディ、ホルヒ、ヴァンダラーの四社がアウトウニオンを結成し、開発能力の向上と各社のラインナップの見直しを図ることを図ったのである。


 この目論見は当たり、30年代初頭時点ではオートバイ事業・小型車事業とも好調に推移し、高級車路線に定評のあるダイムラー・ベンツ・アリサカよりもむしろアウトウニオンの方が利益を出していた。


 だが、本国の業績が思わしくないGM、フォードは侵略先であるドイツ及び周辺国への食い込みを図るために一層の攻勢を強めていたのである。


 当初はDKWが他の三社を傘下に収めるといった形であったが、それではこの荒波を乗り切れないと判断したDKW社長イェルゲン・スカフテ・ラスムッセンは大胆にも四社の完全統合を断行し、これによって各社の持ち味を活かしつつ不採算部門を整理することで利益を出せる体質に改善、それによってドイツ第二位の規模に躍進して外資勢を迎え撃つこととしたのである。


 アウトウニオンは合併各社の持ち味を生かした非常に幅広いラインナップで軽量軽快で経済的な小型車のDKW、堅実で耐久性に優れた中型車のヴァンダラー、前輪駆動など先進的な技術を備えるアッパーミドル~上級車のアウディ、高品質なプレステージカーのホルヒという具合に価格帯を分け合ってフルラインナップを構成し、4ブランドが争うことはなかったのである。文字通りのフルラインナップはドイツ人だけでなく周辺国にとっても魅力的であり、次第にアメリカンスタンダードを押しつけてくるGM、フォードを圧倒していった。


 アウトウニオンのラインナップに対抗出来るドイツ国内勢力はGM傘下のオペルくらいではあったが、やはり四社合同による持ち味を活かした戦い方を仕掛けるアウトウニオンに比べると魅力に欠けていた。


 ダイムラー・ベンツ・アリサカは大衆車以下の価格帯が欠落しており、GMとフォードは高級車部門が欠落していることで、どのボリューム層に対しても対応出来るアウトウニオンは販売力において大きくリード出来たのである。


 だが、統合直後はやはり知名度が不足していたことから知名度を高めることが必要であった。34年に開催される自動車レースへの出場を決めたアウトウニオンは当時フリーランスであったフェルディナント・ポルシェ博士をスカウトしレーシングカーの設計を委託することを決め、ここで勝負をかけることにしたのだ。


 ポルシェ博士はその期待を裏切ることなく34年のドイツグランプリで優勝を飾り、これが国際レースにおけるアウトウニオンの初勝利となった。7つの世界記録と8つの国際記録を樹立する快挙を達成したのである。


 このレーシングチームの活躍によってアウトウニオンの名声は高まり、ドイツ国内市場だけでなくイタリア市場などでもアウトウニオンの販売実績が上乗せされる結果となったのだが、この事蹟はそのままドイツ政府及びドイツ国防軍からの信頼にもつながり、公用車や軍用車の発注がアウトウニオンに行われ、その生産規模をフルに活用出来ることとなった。


 レーシングチームの活躍による宣伝効果もあって廉価なDKWブランドの車種は好調な売れ行きで35年にはアウトウニオンはドイツ国内市場の半分を制するに至ったのである。


 だが、対抗する立場にあるダイムラー・ベンツ・アリサカは黙って指をくわえていたかと言えばそうでもなかった。


 33年の国際ベルリンモーターショーにおける開会式において、ドイツ首相アドルフ・ヒトラーはメルセデス・ベンツ770で演壇まで乗り付け、同車を背に開会宣言をぶつという露骨なアピールをすることで印象づけ、同様にナチ党幹部や政府閣僚らも同車で会場まで乗り付けるというそれによってドイツ国家御用達と内外へアピールさせることで国内市場ではなく各国富裕層や政治家などに売り込むことを狙ったのである。


 社外取締役である有坂総一郎によって皇室へ数台献上され、陸海軍にも公用車として売り込みがされ、実際に大日本帝国の省庁では公用車はメルセデス・ベンツが指定されることとなった。


 また、乗用車部門ではアウトウニオンやオペルなどへ対抗するには生産規模が小さくラインナップの充実度が低いことから、トラック生産に活路を見いだすこととなった。これはメルセデス・ベンツ770などに用いられている直列8気筒発動機やV型8気筒発動機をトラックに転用した場合都合が良かったからである。


 この目論見はベルリンモーターショー開会宣言でヒトラーが新時代の交通機関である自動車と自動車道路の建設に注目し、モータリゼーションを加速することが国家の防衛力を高めることになると説いたことでトラックの重要性と需要が増したことで大当たりしたのである。


 このドイツ国内における自動車産業の勃興と統合整理は結果として自動車生産能力の強化に繋がり、ドイツ国防軍の馬匹輸送を一気にトラック輸送に置き換えることになった。完全に馬匹輸送がなくなることはないが、それでも騎兵部隊を完全に自動車化することには成功し、輜重兵部隊も順次自動車化が進むことが約束されていたのだ。


 そして需要に応えるために雇用環境は改善、そしてジークフリート線の構築のための動員と景気は好循環していくのであるが、この動きがラインラント進駐へと役立つとは軍へ進駐を命じたヒトラー本人も思っていなかった。


 しかし、新聞各紙は数年前のベルリンモーターショーにおけるヒトラーの演説をサイド掲載し、彼の先読みのセンスを激賞したのである。


「救国の宰相ヒトラー」


「時代を先取りした演説は文字通り予言的中となった」


「鉄血宰相以来の傑物」


 この報道に帝政復古派は苦々しく思ってはいたが、今暫く政権を預けてやろうと矛を収める結果をもたらしたのである。

クリエイター支援サイト Ci-en

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― 新着の感想 ―
[一言] やはり、有坂コンツェルンのベンツへの影響が大きいですね。どう転んでも帝国には損はない。 この好景気なら、ドイツは電撃戦じゃなく真正面からフランスを叩き潰せそうですね。
[気になる点] ポルシェ博士には接触しとらんの? カブトムシは欲しい。
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