フランス、受難の始まり
皇紀2596年1月 フランス共和国
出遅れに焦る大英帝国を横目に代艦建造枠を行使して一足先に戦艦建造をスタートしている隣国フランス共和国はその条約型戦艦としてダンケルク級が就役を目前としていた。
当初予定通りに建造が進み2隻揃って36年春頃には戦列へ組み込まれることがフランス政府から発表があったのであるが、当のフランス政府は実質的に内紛状態であり、フランス海軍は政治の混乱を横目に人民戦線か右派かどちらに与する方が有利になるかと情勢を窺っていたのである。
というのも、ダンケルク級はあくまでドイツの襲撃艦への対抗策であり、近く建造が囁かれるドイツ新戦艦、そして竣工間近なイタリア新戦艦に対する手当を必要としたからであるが、とは言っても、その予算を握る政府がゴタゴタ続きで建造も危ぶまれていたことから大西洋艦隊司令長官であるフランソワ・ダルラン大将は同じく右派に属するフィリップ・ペタン元帥と歩調を同じくし、動静を窺いつつ時流に利あればクーデターを行うことも計画していた。
軍内部において人民戦線の政局における優位は非常に危機感を持って受け止められていたが、元祖革命の地であるだけあって左派の主張にシンパシーを感じないわけでもなく、その立場は非常に微妙であったが、人民戦線の後ろに見え隠れするソヴィエト連邦とコミンテルンの影に右派に属する軍人たちは警戒を強めている。その指導層がペタンやダルランといった存在である。
人民戦線はフランス国民の対独感情を利用して不満を逸らしつつ、右派を攻撃し、総選挙に向けて気勢を上げていたが、それに軍部は冷ややかであった。彼らの主張は一見すると確かに良い政策に見えるものが多いが、それを実施した際に発生するであろう国家財政の破綻や労働者への待遇改善に伴う製造コストの上昇による国際競争力の低下が容易に想定出来たからだ。
当然、そういった事業を行うためには財源確保とともに切り詰めを行う必要があった。税収に対して明らかに歳出が多過ぎるからだが、その矛先は軍部へ向けられることは明らかであった。
人民戦線側からのリシュリュー級戦艦建造の密約は総選挙が近づくと反故にされ空手形となってしまったことで軍部側は人民戦線を敵と認識し、行動に踏み切ることとなったのだ。
ブレスト軍港やトゥーロン軍港から一斉に出港、北アフリカ・アルジェリアのメルセルケビール軍港へ全艦隊が移動したのである。表向き、この行動は大西洋艦隊及び地中海艦隊の合同演習とされたが、その実、アルジェにおける正統政府の樹立を目論んだクーデター予告であった。
同様にフランス本土各地に駐屯する陸軍部隊も順次、政情不安なスペイン国境付近へ集結が命じられ、ピレネー山脈山麓高原における陸軍大演習が発令されたのである。無論、これもペタンによる軍部の統制が目的だった。
政争に明け暮れる人民戦線や右派政治勢力はこの動きに目もくれずに総選挙に向けた政治活動に勤しんでいたのであるが、当然、大英帝国やドイツ、イタリアの各政府にはその動きが何を意味しているかよく理解出来ていた。それ故にスペイン情勢、頻発する人民戦線のテロ行為を理由に国外退去を自国民向けに勧告したのである。
35年12月にダンケルク級が竣工するとこれもまた訓練航海と称してブレスト軍港から出港し、北アフリカを目指す。そこにはパリや工廠に保管されていた資料や希少資源、そして多くの金塊が積まれていた。文字通り、沈みゆく船からの脱出といった体であった。
同じくスペイン国境に集結していた部隊の一部がトゥアレグ討伐を理由に北アフリカへ転出することが命じられ、リヨン港から出港していったのであるが、これらに積まれていたのは量産が進められていたS35騎兵戦車を配備された騎兵連隊であり、本土にあった分散配置されていたS35を根こそぎ集めて定数を満たした上で再編していたのだが、そのエリート部隊を北アフリカへ持ち逃げしたのであるが、それを理解出来た人間はそれほど多くはない。
陸海軍の中枢が連携したクーデター計画は漏洩している部分もあったが、人民戦線も政府もまともに取り合うことなく総選挙へと全力を注いでいた。クーデターなどフランス第一帝政、第二帝政の頃の話であって、強力な指導者が存在していないのに上手くいくわけがないと侮っていたからかも知れない。
「あとは時機を見ての行動あるのみ」
実質的なクーデター軍司令官的立場にあるダルランはそう呟くと来るべき決起の時に備えて全軍の状況把握に務め、そしてクーデターに参画しないであろう人物の左遷と権力の取り上げを進めていくのだが、これによって軍部右派、人民戦線にも属さずにかといって中立でもない存在が出来上がっていくのであるが、それはまた別の話である。
軍の動きに同調するかのように一部の軍産企業はその資産を同じくアルジェか隣国ロンドンへと移送していたのだが、それによって証券市場の年初取引は大暴落から始まったのであった。
このことでフランス経済界は第二の大恐慌へ突き落とされることとなる。しかし、政府も突然のことに上手く対処出来ず混迷を深めていき、新聞各社は好き勝手な報道を始めることで政情不安が増していくのであるが、人民戦線は好機と捉えるばかりで労働組合のストライキや賃上げ闘争を煽っていくのであった。
そこに当事者意識は全くなく、ドイツ政府は以下のような声明を出して迷惑がった。
「ライン川を越えてフランス難民が押し寄せてきても我々にはそれを養う能力はない。面倒見てやれる余裕をなくしたのはフランス人が我々から搾り取ったせいである。お帰り願いたい。さぁ、お帰りはあちらだ」
首相として経済政策の指揮を執っていたアドルフ・ヒトラーにしてみればフランス人が血迷ったことで東部国境だけでなく西部国境に面倒ごとなど抱えたくなかったのだ。
「面倒を見よというならば、エルザス・ロートリンゲンを引き渡してからそういうことを言って欲しい。そこにある鉄資源を活用することが出来れば我々はフランス難民の面倒を見る余裕だって出来るのだが、どうかね?」
無礼と言えば無礼だが、統治能力のない政府が有望な資源地帯を有するよりも統治能力の存在し経済成長を始めた国家に明け渡した方が余程マシなのであるが、そういった正論が通用しないからこそ争いの種がそこら中に存在しているのだ。
これにフランス政府は無礼と言って声明を出したがそれ以上のことは出来なかった。圧力を掛けるべき軍部は北アフリカやスペイン国境に存在し、対独圧力には無力であった。まして大英帝国からも同様に苦情がきていたこともあって肩身が狭かったのである。
こうしてフランスの36年の初春は混迷から始まったのである
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