とある決起文と賃金闘争
皇紀2595年12月 帝都東京 三宅坂 陸軍省
35年も年の瀬も差し迫った頃、モスクワ発の一つの電文が世界中で、とりわけ東アジア地域へ向けて一斉に発信され、それは日本語による演説文であった。
人民解放戦線行動宣言と題されたそれは日本人女性活動家が亡命日本人を中心にモスクワで旧共産党メンバー、社会主義者を加えて設立したテロ組織からの声明文であったのだ。
以下はその本文の抜粋である。
これからお話しする内容は人民と女性の解放のための行動宣言なのです。
私は今、ソヴィエト連邦のモスクワにて亡命日本人、祖国を奪われ流浪の末にたどり着いた朝鮮人たちとともに立ち上がり、人民解放戦線の一員として平和の敵、世界人民の敵である帝国主義者たちに決別を宣言するものであります。
特に大日本帝国は普通選挙を否定し、特権階級や財閥、地主などが政治経済を牛耳っています。甘粕事件などいくつもの弾圧によって多くの同胞も投獄または処刑され、難を逃れた者たちはこうして極寒のシベリアに追いやられたのです。
私たちはこうしてモスクワで再会し、同じく迫害された朝鮮人たちとともに日本帝国主義を打倒せんと誓い、これに協力的であるソヴィエトの同志たちとともに日夜、人民の敵を討ち果たすためにその身を粉にして大願成就へと邁進しているのです。
今、日本は世界人民が望む平和とはほど遠いところにあります。世界各地で戦争の火種を撒き、養分を与え、やがて実った戦争という果実が世界中に争いを招いています。その災禍によって真っ先にに苦しんだのは支那人民、そして日本人民は疑いを持つことさえ許されずにこれに加担させられています。そして欧州各国もまた日本帝国主義と歩調を同じくし、アジア人民を虐げているのです。
今こそ私たちは団結し、協力し合い、この不当なる手段で搾取する悪逆非道な振る舞いを見せる存在に決別しなければなりません。そして、抑圧された人民を解放するために行動計画を実行するのです。
私のたちの目の前にはいくつかの課題があり、最も重要な課題は女性の解放です。世界で最も進んだこのソヴィエトでは女性は社会に多く進出し、工場においても戦場においても、その活躍は男性を凌ぐものであり、特に女性パイロットなどは男性パイロットにくらべ目覚ましい戦果を挙げています。
そう、あなたたち日本軍国主義と戦っている最前線は女性戦士によって支えられているのです。モスクワで過ごしていると女性パイロットや女性兵士が戦場で活躍していることを報道する紙面をよく目にします。これは女性がけして男性に劣るモノではないという証明なのです。
また、ソヴィエトの人民委員には女性委員が数多く存在し、彼女らも男性委員を議論で退けるなど目覚ましい活躍をしているのです。
こういった事例を目にし、耳にすると日本という社会が如何に遅れ野蛮であるかが思い知らされます。ですが、私たちはそれをけして卑下してばかりではありません。退廃的な日本から脱出した私たちは進歩的であり、先頭に立つことが出来る存在だからです。
今こそ、あなたたちが持つ常識を捨て、大胆かつ進歩的な行動をすべきなのです。これは全ての世界人民がともに手を携えて進むべき唯一の道なのです。
今もなお女性たちはあらゆる権利を社会から奪われ続けています。平等な社会を造ることさえ認められません。ジェンダー平等と全ての女性の権利の強化を達成することは世界人民の義務なのです。
私たちは平和のため、全ての女性のため、全ての民族のために決意します。
平等で恐怖や暴力に怯えることのない平和な世界のために、それを阻む全ての帝国主義者、権威主義者、差別主義者と戦い続けることを。
帝国政府、中央省庁、各総督府などはこれをすぐに発禁などの処分にすべきだといきり立っていたが、そんな中で冷静な男が一人それを制したのである。
「この程度の駄文に帝国政府を初めとする国家機関が動揺してどうする。好きに書かせてやれば良い。ただし、その結果がどうなるか、それは内務省と憲兵隊が責任を持って示しましょう」
関東憲兵隊司令官東條英機中将は陸軍省からの帰朝命令によって帝都へ出向いていたのだが、その折りにこの人民解放戦線行動宣言に出くわしたことで、憲兵隊の親分として意見を求められそう応えたのである。
「確かに女性の権利とやらは考慮してやるべきモノでしょう。しかし、職業婦人の多くは現在でも男と比べて特別不利な扱いを受けておるのですかな? そうではないでしょう」
東條が重ねてそう言うと陸軍省の主計官はそれに同意するように頷く。
「閣下の仰る通り、我が省でも受付事務などに婦人を登用するようになりましたが、十分な給金を支払っております。それどころか、成果を出しておる者にはそれに応じた加算金を出しておるので応募が絶えませぬ」
「そうだろう? 女だからと言って甘えたりせず自立しておる者はそうやって見合ったモノを得ておるのだ。それは民間であっても同様であろう。それに見合ったモノを出さぬ企業など人不足でさっさと潰れておるわ」
東條がそう言うとその場で笑い声が上がる。景気が良い日本において人材は引く手あまた、企業側が足下を見られることすらある現状では下手な給与査定などしたらその時点で離職されてしまう。
「それに、給与が少なくて不満を言う側にあるのは我々陸軍軍人の方だろう。貴様の給与と民間の給与なら少なくとも500円は年間で違うだろう。どうだ、さっさと退役して民間に口利きして貰って役員にでもなったらどうだ?」
東條が隣に座っている陸軍次官梅津美治郎中将に冗談を言うと梅津は渋い表情で応じる。彼は総選挙後に陸軍人事の刷新で支那駐屯軍司令官から陸軍次官にスライドしたばかりであった。
「東條さん、次官になったばかりの私に退役しろとはあんまりですな。北支ではお互い協力し合ったではありませんか、あんまり意地悪なことを言わんで下さい」
「あぁ、すまんな。儂より先に陸軍次官になった貴様に少しばかり嫉妬してしまったのだが、まぁ、次官手当が付いたと言っても民間のそれなら年収7000円程度はあるだろう。だが、貴様の年収は6500円・・・・・・民間と同じように上がっても良いだろうにな」
陸軍次官は陸軍省においてナンバーツーであるが、それだと言っても、中将の年収と手当でその程度なのである。将官であるから余裕があるとは言っても、退役して軍と関係の深い企業に横滑りすれば場合によっては年収1万円にもなるだけに冗談でなくても一定階級まで上がったらさっさと退役を考える将校もいるのである。
それが下級士官や兵に至ると事情は更に悪化する。徴兵や召集で兵役に就いた場合、職にもよるが年収が半減することすらあり得るのだ。
「我らはそれでも待遇がマシだろうが、兵や尉官たちが可哀想だ」
居並ぶ高級将官は揃って梅津の呟きに頷く。だが、ない袖は振れない。国家予算そのものは景気に後押しされて増え続けているが、戦費や産業育成に消えていくせいで給与に反映されるのは遠い未来の出来事であったのだ。
「これ、女性云々ではなく、軍の方がそっぽ向きそうだよな」
「おい主計、貴様ら、政府や大蔵省が納得する範囲で給与増額出来る試算を出せ。大臣や次官会議を通してねじ込むにも奴らが譲歩出来る内容を把握できんと交渉できんからな」
いつの間にか、人民解放戦線行動宣言への対策ではなく、人民解放戦線行動宣言を利用した賃金交渉の舞台作りへこの会議は様変わりしていたが、誰もそれに異を挟むことはなかった。
――いつまでもあんな給与じゃ思想云々ではなく、賃金闘争が起きかねない。
居並ぶ将官の内心は一致していた。賃金闘争の為に決起する帝国陸軍など恥も外聞もなくみっともない。そんな不名誉などあってはならないのだ。
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