我田引水
皇紀2595年4月 フランス共和国
歩兵戦車、騎兵戦車――現代では聞くことのない馴染みの薄い名称だが、この時代で明確な意味と意図があり、そしてそこには男の意地と浪漫と所属意識が存在していた。
まず歩兵戦車とは何か、この名称で思い浮かぶモノで最たる例といえば大英帝国のチャーチル重戦車、マチルダ歩兵戦車などだろう。比較的優速であるフランスのルノーB1もここに含まれる。
その特徴を問われれば第一に装甲、第二に大口径、第三に低速度と応えると分かるだろう。帝国陸軍の駐在武官が「武蔵坊弁慶」と評したのもまさにそれ故である。どっしり構えて歩兵と連携しつつ適宜敵陣地や敵の火砲を黙らせるという役割こそ彼ら歩兵戦車の本質というモノだ。
その性格上、大英帝国では歩兵戦車は歩兵師団に属し、フランスでは歩兵科に属した。前者の場合は任務によって、後者はセクショナリズムによってであるが、結果としては同じような状態であるから詳細は省くが、歩兵の盾となるべく運用されたことには違いはそれほどない。
一例として大英帝国の歩兵戦車の要求性能を示してみよう。以下の通りだ。
1,敵対戦車砲に耐えうる、移動陣地となるような厚い装甲。
2,歩兵と行動するために速い速度は不要。
3,歩兵と協同出来る不整地走破能力が要求され登坂力、超堤能力、超壕能力に優れる。
設計思想は欧州大戦時の戦車の運用をそのまま発展させたモノでしかないことが分かるだろう。だが、これは現実的な落とし所だったからこそ陸軍兵器開発当局も用兵側も受け入れていたことを忘れてはいけない。
攻防速全てを兼ね備えたモノを作り上げようとすればこの時代の場合、必ず車体の大型化と価格高騰を引き起こしていた。そして、価格高騰を「国防予算」という名のごり押しで押し切っても、重量は誤魔化せないのだ。
重量過大というそれは船舶輸送、鉄道輸送、自走、全てにおいて深刻なトラブルを引き起こすことは誰の目にも明らかだったのである。欧州の港湾施設ですら支障が出るのにインフラレベルの低い植民地などでは何をか言わんやである。
そのため、歩兵戦車はほどほどの重量で装甲と火力に重きを置いて開発を行ったのだ。その逆で速度と火力に重きを置いたのが巡航戦車(騎兵戦車)という存在であった。
そう言った意味ではルノーB1はこの時代において時速30km台を達成出来る攻防速全てを兼ね備えた希有な存在であったと言えるだろう。尤も、彼らが犠牲にしたのは膨大な開発費と製造費という過大なコストによる生産数の縮減であったのは必然の結果であったかも知れない。
さて、そんな彼らも歩兵科だけに戦車が引き渡されるのを黙ってみているわけがない。そう、 陸軍の主役は騎兵科であると自認する彼らにとっては欧州大戦という戦争形態の変化で自分たちの存在意義が転換しつつあることに敏感であった。そしてそれにうってつけであったのが新兵器の戦車である。
だが、専ら戦車は歩兵とともに行動し、陣地突破、塹壕突破などに用いられていた。突進力としての役割を失い縮小廃止へと歩みを始めていた騎兵科にとっては再び存在意義を示す為にはこの新兵器である戦車を自分たちの縄張りに引き込む必要があった。
しかし、歩兵科で使っている戦車を自分たちが使うのは都合が悪く、格好もつかない。
そこで考案されたのが、敢えて戦車という名称を使わずに装甲車という名称が用いられた。そしてそれは騎兵戦車へと昇格し、遂に自前のそれを手にすることが可能になったのだ。それがソミュアS35であった。
こういった事情はなにもフランスだけでなく、大日本帝国でも、アメリカ合衆国でも同様に存在し、日本でも装甲車、アメリカでは戦闘車という名称で騎兵科の装甲車両として命名される。世が世なら、89式装甲戦闘車も帝国陸軍の騎兵科に属する装甲車両であったかも知れない。その場合、四九式重装甲車とでもなっていただろう。
さて、そのソミュアS35であったが、フランスにおいて騎兵科主導の機械化師団の基幹戦力として整備が始まった。
この開発の源流は34年の夏に通達された騎兵戦車「AMC」、日本語に訳すと戦闘用機銃車の仕様に基づいてデザインされたものである。途中、日ソの対立などの影響も受けつつ開発は進み、戦訓を採り入れて試作車の時点で長砲身47mm砲を搭載したモデルが登場している。
フランス陸軍は史実以上にS35の開発を促進し、その量産化を試作車完成前に決定したのは日ソ対立によって高機動運動戦という戦訓を得たことによるモノであったが、騎兵科が歩兵科よりも優位に立ちたいという欲に駆られたためでもあった。
騎兵科は高機動運動可能な騎兵戦車を多数整備すれば、突破が容易な敵の布陣が薄い地域を経由して後方へ進出、若しくは側面展開などの迂回挟撃が可能となり、歩兵戦車のような鈍重な存在を無視して敵要衝を抑え、主補給線を遮断することで強力な敵を孤立させることが出来ると判断していた。
その考えた自体は旧時代の騎兵運用方法と大差はないが、そもそも決定的に速度が異なり、時速40~50kmの高速力で突破浸透することで敵が対応してくる前に後方の要地を確保してしまえるのだ。
欧州のようなインフラの整った地域であれば道路事情もすこぶる良好であり、尚のことその効果は大きく、騎兵科内部での図上演習でもS35を集中運用した機械化師団は各地で戦線を突破し、迂回挟撃や敵の孤立化を成功させていた。
この結果は騎兵科高級将官の自尊心をくすぐり、また配置換えやむなしと思っていた騎兵科将兵に活力を与えたのである。
「これがあれば・・・・・・」
ソミュールの騎兵学校を首席で卒業した俊英、フィリップ・フランソワ・マリー・ド・オートクロクはソミュア社の工場で出来上がったばかりの試作戦車を受領するために立ち会っていたが、彼の瞳に映るS35は文字通り光り輝いて見えていた。
彼は34年に大尉に昇進したばかりであるが、本来ならばとっくに佐官へ昇進している頃合だがフランス軍全体で士官の昇進が予算的都合で遅れているため、彼もまた歳の割に階級が低い。
しかし、騎兵科のホープである彼を遊ばせておくのは勿体ないと騎兵科の上級将校は彼を長とする騎兵戦車中隊を新編制し、これを以て図上演習の結果を再現させようと画策していた。
彼は中隊長という肩書きであるが、実際にはその規模は大隊規模であり、その総数は70両規模の車両を擁する。彼の指揮下は以下の通りである。
教導装甲騎兵団(S35×36両、自動貨車×35両、自動車×5両)
騎兵戦車3個中隊
騎兵戦車中隊:騎兵戦車4個小隊
騎兵戦車小隊:S35騎兵戦車×3両
戦闘騎兵1個中隊
戦闘騎兵中隊:戦闘騎兵4個小隊
戦闘騎兵小隊:機関銃1個分隊、小銃3個分隊、自動貨車×5両
機動輜重1個中隊
機動輜重中隊:機動輜重3個小隊
機動輜重小隊:自動貨車×5両
司令部:自動車×5両
実質は大隊編制であるが、大隊という名をつけず、筆頭中隊長という肩書きによって「大隊ではない何か」という抜け道を演出したのであった。
オートクロクの手にある戦力はその全てがまだ揃ったわけではないが、騎兵科の目論んでいる装甲騎兵師団の先駆けとなるモノであり、これこそが騎兵科上層部が復権の鍵であったのだ。
まずは、その第一歩として、受領した本部中隊用の12両であった。
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