武蔵坊弁慶
皇紀2595年4月 フランス共和国
重戦車と言えばⅥ号重戦車ティーガー、ティーガーⅡやJS-Ⅲなどを思い浮かべる者は多い。中には超重戦車オイを挙げる者もいるだろう。だが、重戦車の大家とは日独ソの何れでもなく、実はフランスであることを知るものは少ないかも知れない。
数十年の長きにわたって宇宙戦記の代名詞とされる一連のシリーズでライバル格として有名な人物がいるが、その人名の源になった存在が、まさにそれであると言えるだろう。
その名をシャールB1、もしくはルノーB1という。
短砲身の75mm砲、47mm砲を搭載し、30トンにもなるその巨体はまさに動くトーチカというべきモノであったが、欧州大戦のそれを引きずった前時代的な風貌であった。しかし、装甲は十分に施され短砲身とはいえども75mmという中口径砲の威力は馬鹿に出来るモノではなかった。
計画のスタートは1921年と八八艦隊とダニエルズプランで日米が激しい建艦競争を繰り広げワシントンにおいて海軍軍縮会議を開催していた時期に遡る。
この頃はまだ欧州大戦後の戦後の混乱が尾を引いている時期で、極東ではシベリア出兵、欧州ではハンガリーにおいてカール1世が王位復帰を狙い、ウクライナ・ベラルーシを巡ってソ連とポーランドが激しく戦っていた。
こういった事情もあり、フランス軍にとって戦車の研究開発は必要不可欠なモノであると認識されていた。故にエティエンヌ将軍は歩兵支援用の重砲を搭載したタイプの戦車を提案、これに基づいて15トン級の戦車の開発がまずは決定されたのである。
開発スタート後の24年には早くもエティエンヌの構想に基づいた戦車がルノー社をはじめとする5社によってモックアップが提出されるのだが、計画重量である15トンでは目標達成は困難であることが顕在化し、すぐに計画は20トン級へと変更されることになった。
そして26年に至ると3種のモックアップが提出され、再び選考が始まったが、各社の不安は再び現実化し陸軍当局もまた性能の不十分さに再度計画が修正されることとなる。この時点で開発の主軸はルノー社とされ、FCM社の技術協力で計画が続行されることとなった。
流石にこの時期では発動機の能力不足など諸条件をクリア出来なかったことから計画は難航を極め、最終的に29年に試作車が完成し、増加試作機が順次31年までに完成し問題を一つずつ潰していくという消化試合の期間に突入することになる。
しかし、開発が難航する中でも、彼ら開発陣は挑戦を諦めなかった。
被弾時において自動的に穴を塞ぐよう燃料タンクは内部にゴムの内張りを貼るセルフシーリングを採用し、また発動機は走行中でも整備が可能なように工夫がされていた。また、車内から無限軌道の張度を調整可能なようにしてメンテナンスに気を遣っていたのである。
また、欧州大戦からの技術系譜であるが故にその巨体は視認性も高いため前面防御だけでなく側面防御も60mmの装甲板を貼り付けていたことで仮想敵国であるドイツの対戦車砲に十分耐えることが可能であった。
試作車も開発の進展とともに発動機を変更し馬力アップと機動力向上を随時行うことで最終的に制式採用時点で直列6気筒ガソリン駆動300馬力、最高時速30kmを達成している。
こうして晴れて34年後半に制式化されたルノーB1は重戦車中隊編制で各歩兵師団へ分散配備されることとなった。配備先は主に東部国境地帯であるアルザス・ロレーヌに集中していたが、政変が続き不安定なスペインと接する南部国境地帯のガスコーニュ・アルマニャックなどにも配備されている。
とは言っても、この世界ではフランスの国防費負担は史実以上に重くのしかかっている。マジノ要塞線の構築だけでなく、ノルマンディー級戦艦の保有と地味に負担は大きい。プロヴァンス級戦艦を譲渡したとはいえど、ダンケルク級戦艦の建造も行われ、35年中にダンケルク、ストラスブールの2隻とも進水が予定されている。しかも、海軍はダンケルク級の進水と同時にさらなる戦艦の建造を計画し、予算の獲得合戦を水面下において行われていたのだ。
陸軍も負けず劣らず鉄道国有化に口を挟み影響力の拡大を試み、同時にいくつかの軽戦車と中戦車の開発を進行させていた。理由は巨費と多大な時間注ぎ込んだルノーB1を十分に配備するのは困難であるからだった。故に重戦車であるルノーB1を代替する小型軽量低コストの戦車を必要とした。
同じルノー社にはルノーD2中戦車の開発が依頼され、35年には製造可能になっていた。陸軍はすぐさまルノーB1の発注数を絞ると同時にその浮いた予算でルノーD2生産することに決し、50両が発注され、36年には100両が発注見込みとなった。
これはルノー社にとっても好都合ではあった。扱いづらく生産数も出せないB1よりD2を生産する方が利益にもなり、また要望に応えやすかったのである。
だが、それでもフランス陸軍はD2ですら高価で数を揃えるのが難しいと考えていた為、オチキス社にH35軽戦車を、ルノー社にR35軽戦車を、ソミュア社にS35騎兵戦車をそれぞれ発注していたのである。
その中でもソミュア社のS35は別格であった。H35、R35、D2は何れも最高時速20km程度であったが、S35は騎兵戦車の名に相応しい最高時速40kmを発揮可能であったのだ。これは歩兵直協を本義とする歩兵戦車に対して突破と浸透拡大という攻勢を担う騎兵戦車の区分によるモノであった。故に、B1の代替を行う存在としてD2、H35、R35を生産しようと画策したのであるが、S35だけは別の目的で量産を画策したのである。
とは言っても、まだ試作車や増加試作車が出揃った頃合で、本格的な量産は36年から37年頃とみられている。戦力が揃っていない中でB1が放つ存在感はそれだけで陸上戦艦の威風を示し国境における戦力誇示と士気高揚に役立つプロパガンダとなっていた。
35年春にフランス駐在の陸軍武官から帝都の陸軍省へ報告が届いた際には以下のように記されていた。
「仏蘭西ノ新型戦車ハ旧態依然タル容姿ナレド其ノ本質ハ武蔵坊弁慶ナリ」
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