とある歌人とその門人
皇紀2595年2月26日 帝都東京
与謝野晶子・・・・・・明治、大正、昭和初期の代表的女流歌人である。その彼女はいわゆる反戦、非戦主義者と言われている。明治期において日露戦争当時に自身の弟が出征したことで「君死にたまふことなかれ」を発表し、物議を醸した。論壇においても彼女の主張は大きく問題となり、親交の深い文化人に「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と激しく非難されるに至った。結局、その時は夫の与謝野鉄幹の取りなしで事なきを得る。
このことが現代日本社会においては与謝野のイメージを決定づけるモノとなり「嫌戦の歌人」と知られるようになる。
そんな与謝野に一方的なイメージに希望を抱いたとある転生者がいた。彼女は与謝野の元に押しかけ熱烈に師事することを請い、彼女の熱意に負けた与謝野は住み込みの手伝いとして彼女を自身の元においたのであった。
だが、これが与謝野本人と彼女の人生を狂わせることとなった。
明治、大正の頃はそれでもまだ良かった。欧州大戦が始まった頃から、二人の思想的な対立がその後に生まれ、次第にその亀裂は修復不能なものになっていったのだ。
最初の綻びは欧州大戦が行われている頃に発表した『戦争』という詩であった。与謝野は詩の中で「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と表したのである。
これに彼女は激昂した。
「先生、これは一体何なのですか! 先生が斯様なモノをお書きになるなど到底信じられません」
転生者であり、与謝野を過剰に称揚し、反戦主義者として崇拝していた彼女にとってそれは裏切りに近いモノだった。だが、結局は与謝野に言いくるめられた彼女はその時は拳を下ろしたのである。歴史上の大人物の言うことに従ったのだ。
その後、シベリア出兵は史実と異なり戦火は拡大、最終的には大日本帝国の逆転勝利となり、正統ロシア帝国が沿海州とその周辺に成立した。
当時の総理大臣原敬が平和の切符を勝ち取ったそれを与謝野は称賛し、平和の尊さを訴える詩歌を発表したことで彼女の不信感は一端は収束したかに見えたが、自覚のない違和感は彼女の心を徐々に蝕んでいった。
やがて関東大震災を経験すると赤狩りが本格化し、与謝野の身辺も特別高等警察や憲兵隊の監視がつくようになり、あからさまな威圧が日常生活に影を落とすようになった。
「先生のお考えをもっと世に知らしめましょう。かつて、平塚らいてう先生と論争をなさったときのように、あなたこそ女性自立、女性解放の盟主になるべきです」
彼女は言う。だが、与謝野にとっては時流を読まない小娘の戯言にしか聞こえない。この時点での時勢分析は与謝野が正しいのだ。ただでさえ、『君死にたまふことなかれ』で逆賊扱いされ、平塚らいてう、山田わからを相手に母性保護論争を行ったことで帝国政府や官僚、軍人、警察から目の敵にされているというのに何をか言わんやである。
この世界では男子普通選挙も実施されることなく、制限選挙制が維持されている状態である。表だって目立つ行動をすることの意味を与謝野は自身の文筆活動で身をもって知っていた。
だが、現代的価値観しか知らず、それを絶対的な尺度で視ている彼女にとっては与謝野の正論は唾棄すべき男尊女卑のそれでしかなかった。女性の解放とジェンダーフリーこそ正義だと信ずる彼女は歯痒い思いをし続けていた。
「私なら・・・・・・声高に主張してこの腐りきった社会を変えてやるのに・・・・・・」
彼女の心の奥底には黒く醜い澱のようなものがふつふつと煮えたぎっていた。有坂総一郎ならば彼女のそれについてこう評しただろう。
「現代的価値観によるお花畑な幼稚な思想」
「時代錯誤と視野狭窄」
「転生すべき時代を間違えた頭の大変残念なおこちゃま」
だが、彼女にとってはそれこそが正義だった。真実であった。そしてそれこそが彼女の存在意義であった。
彼女の前世は総一郎のいた現代時空とそれほど違わない時期だ。彼女は女性の権利や庶民目線を旗印に国政選挙を戦う政党の幹部議員であったのだ。それ故に自身と親和性の高い与謝野と同じ時代に生きていると自覚すると与謝野に接触したのである。
だが、彼女が失敗したのが与謝野晶子という人間の本質を見誤ったことである。要するにイメージでしか彼女を知らず、彼女の著作や政治活動、主義主張を殆ど知らなかったことだ。
知っていたら恐らく彼女は与謝野に近づくことはしなかっただろう。なにせ、与謝野の反戦論など一貫性のない自己都合によるいい加減なそれだからだ。
「こう言ってはアレだが、情緒不安定な時期に書いた駄文か、女性特有のお気持ちとか言うアレだろう。相手にするだけ馬鹿を見る」
総一郎はそう言って与謝野を斬って捨てている。容赦もないそれだが、先入観なしで与謝野の言動をみればそう思う方が理屈が通るくらいだ。
だが、彼女にしてみればそんな失敗を認めるわけにはいかなかった。認めるには時期が遅かったのだ。昭和の御代に入る頃には赤化勢力は文字通り根絶やしにされ、帝大でマルクス主義なんてものを議論すれば特高警察か憲兵が飛んでくるのだ。睨まれて終われば良いが、アカ認定されれば素敵な未来が待っている。
頼みとすべき共産党は雲散霧消し、シンパシーを抱く半島出身者は半島に送り返されるか、正統ロシアとの住民交換でシベリアへ送られている。彼女の頼るべき存在はことごとく潰えていたのだ。
それだけなく、男子普通選挙制度が大正期に否定されてしまったことで、女性参政権など100年は遠のいたのだ。女性参政権のそれを訴えたところでそれに賛同する者も実質的にいないと言っても良いだろう。
これは総一郎の罠だった。
「普通選挙制度の否定はそのまま女性参政権の否定に繋がる。まともな政治的判断の出来ぬ存在など政治には不要。この国にデモクラシーは1000年早い。それは21世紀の戦後日本が証明している」
女性同士を保守革新へ分断し敵として戦わせ、さらに男子普通選挙が認められないことで選挙権も被選挙権もない男性もまた自身の権利を確立するために女性参政権を否定することになる。
この論理は既得権のある層にとっても都合が良く、政界だけでなく官僚たちにとっても都合が良かった。無見識などこの馬の骨とも分からない存在が政界入りしないことはポピュリズムの否定にもつながり結果として国益となるというものだった。
彼女はこの仕組まれた罠に気付くことはない。そこが彼女の限界だった。総一郎の罠がこの時代のこの時代だからこそ通用する論理で固められたものであるのに、彼女は現代的価値観でしかものを視ないからである。
しかし、原理主義者はそんなものが通用しない。外の理由や論理ではなく、原理主義者は内の論理しか必要ないからだ。
そして、遂に与謝野と彼女が道を違えるときが来た。
「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」
以前の歌「君死にたまうことなかれ」とは正反対である戦争を賛美し国民士気を鼓舞する歌を作ったのだ。日ソが満蒙において小競り合いを始め、大興安嶺要塞で優位な戦いをするそれを報道に知り、その翌日に与謝野はこの歌を発表したのである。
これに仰天した彼女は今までの一貫しない主義主張と合わせて遂に激怒してしまったのだ。
「今まで先生の仰ることであるからこそ、意味があると思い隠忍自重して参りましたが、今回のこれには失望しました。先生のそれは反戦主義でも平和主義でもありません。女性の解放や自立も方便でしかないと分かりました・・・・・・これ以上ご一緒することは出来ません。出て行きます」
一方的な物言いだった。与謝野は彼女に言葉を掛けることが出来ず、呆然として彼女が部屋を出て行くところを見守るしかなかった。
彼女の失望は自身の身勝手な思い込みと偶像崇拝の結果でしかないが、与謝野はこのことに塞ぎ込んでしまい暫くは文芸界から引退状態となってしまったのであるが、それはまた別の話である。
そして、彼女が女性運動家として自立したことで歴史はまた動き始める。
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