陸軍大臣荒木貞夫の決断
皇紀2595年2月26日 帝都東京 陸軍省
陸軍内部の政局はシベリア出兵による荒木・真崎両将軍の英雄化で皇道派の台頭によって始まったと言える。
当の荒木貞夫大将本人は”機を見るに敏”を有言実行しただけで、それによって英雄視と青年将校らの崇拝を招いたという程度にしか思っていない。彼自身が何か思想的な影響を与えたとすれば、国粋主義結社である国本社に出入りしていて、その会員として周囲に国本思想をことあるごとに語っていたということくらいだろう。
国本思想、国本主義、国本運動とはその源流を辿ると江戸幕府の田沼時代に遡ることになる。田沼時代の非主流派であった松平定信によって提唱されたものであり、明治維新の頃には岩倉具視が「国本七箇条」を朝廷に献策している。よって、ポッと出の欧州かぶれのマルクス主義やファッショとは異なる歴史的に背景を持つ思想である。
いわゆる危険思想ではない、箔の付いた国粋主義思想の結社である国本社にはそうそうたる顔ぶれが理事や幹事にとなり出入りしている。大審院長であった平沼騏一郎が会長となり、また副会長には海軍の東郷平八郎が就任している。官僚では”天皇陛下の警察官”の二つ名を持つ後藤文夫、政治家には鈴木喜三郎、原嘉道などが連なり、軍人には東郷の他に海軍では加藤寛治、末次信正、斎藤実、大角岑生、陸軍では上原勇作、宇垣一成、荒木貞夫、真崎甚三郎、秦真次、菊地武夫、小磯國昭、永田鉄山などが居並ぶ。財界からは池田成彬、結城豊太郎らが名を連ねている。
この中に名を連ねている人物の中には総理大臣経験者として平沼、斉藤、小磯が含まれ、閣僚に拡大すると軍部大臣が加藤、大角、宇垣、荒木、文官大臣が原、後藤、鈴木、末次、池田、結城とこれでもかと存在している。
では、この国本社が皇道派の源流かと言われたら正解であろうが、母体かと言われたら半分正解というところである。ここには史実の統制派も名を連ねている。宇垣や永田がそれになる。
実際、皇道派の暴挙と言われる2・26事件などは荒木の思想がどうとかではなく、北一輝などの赤化右翼思想によるものだ。赤化右翼というのは矛盾して聞こえるかも知れないが、実態として極左と極右の思想などベクトルの違いだけでその本質は一緒であると言えるからだ。
そして、この世界では東北地方の殖産興業によって農村人口の余剰を第二次産業で吸収し、尚且つ収量や耐寒性に優れた品種への改良と作付け変更を行ったことで30年代の記録的凶作を乗り切っていたのだ。確かに不作による被害は目を覆いたいものではあったが、史実と異なり農村の荒廃に至ることはなかった。これによって青年将校らのポジショントークの根拠が失われた。また、北一輝らの逮捕や処刑によって行き過ぎた思想の芽を刈り取ったことでウブな青年将校らが危険思想に触れる機会が絶たれたことが大きなターニングポイントとなったのは間違いない。
史実と異なり、青年将校たちが魂の叫びを上げ、それを利用する逆賊がいない状態である以上、青年将校らにとっては思想的指導者というよりは単純に英雄崇拝に置き換わっていた。
だが、面倒なのはそこであった。要は鰯の頭も信心からという奴だ。自分の信じたいものを信じるというそれそのものが変わっただけに過ぎないのである。
結果、危険思想から解き放たれても、「英雄将軍がこう言っているから云々」という論調で陸軍省内、兵営において薄っぺらいことを吹聴して回っていたのだ。当然、雲の上の尉官や下士官がそう言うのだから「そういうものなんだろう」と蔓延していったわけだ。
誠に面倒な歴史の修正力である。
こうして英雄将軍の虚構が膨れ上がり、陸軍大臣の視察などあれば文字通り英雄将軍の凱旋が如き歓呼の声で迎えられるのだ。
「全く馬鹿なことをしてくれたものだ」
自重を求め再三注意をするが、中間層である下士官たちがそれを曲解し、兵卒にその責任を負い被せるのだから荒木は頭痛が絶えることがない日々であった。
そして、自身の恣意的人事で真崎甚三郎大将を参謀次長へ就けていたが、彼の増長もまた荒木の頭痛の種であった。宮様参謀総長という象徴的存在に代わって参謀本部を差配しているのは構わないが、当初意図した参謀本部のコントロールとは違い、真崎の私物化が目立つようになったのだ。
「そろそろ潮時であろうか・・・・・・」
省内における反皇道派の面々による消極的不服従や意図的なサボタージュが目立つようになり、人心を一新すべき時期が来たと荒木は悟った。
「何やら人事局が杉山や梅津と接触しておるようであるし・・・・・・良い機会だから参謀本部の掃除をして連中のガス抜きをしてやるとしようか」
あくまで自分の意志ではないという様に装って人事局へ新人事案を提出させるように省内の空気を整えていった。荒木人事を発令し、人事局の皇道派を別部局へ栄転という名の左遷を行い反皇道派の行動の余地を大きくしていき、人事局が寝返った形を演出させたのだ。
「うむ、貴様らの人事案はこういうことなのだな?」
人事局から試案が提出されるといくつかの人材に可否を示し、皇道派の人材を更に減らしたのであった。
「貴様らの言うことは分かったが、その案では人心一新というには生温いと思うが、儂ならこうするがどう思う?」
荒木が示した案には皇道派のホープと言われる人材を閑職または陸軍中央から現場へ追いやったとしか思えないものが示されていた。それには人事局側も驚きを見せるしかなかったが、元々人事局側が望ましいと考えていた人事案だっただけに頷くほかなかった。
「大臣のお考えが知れましたので、これを軸に再度検討し提出致します」
「うむ。昨今、航空本部で実績を出しておる杉山には良いポストを用意してやってくれないか・・・・・・その案にある梅津は今は現場《支那》から外すのは拙かろう・・・・・・代わりに岡村を起用してやると良いだろう」
荒木に示された人材は何れも反皇道派の面々の中でも各方面で活躍し名声をほしいままにしている人物だった。岡村は関東軍で参謀をしている岡村寧次少将であるが、時期的に参謀本部の部長職を任せても良い頃合いだった。特に支那方面における事情通が参謀本部の要職に就くのは昨今の情勢を考えると都合が良かった。
「大臣の仰せの通りに」
それから数日後、真崎や小畑敏四郎少将らが不服申し立てをしたが大臣決裁が行われた後であるという理由で退けた。
「これで少しは騒がしい連中が黙るだろう」
陸軍大臣の椅子には未練がないが面倒を起こしそうな連中を抑えるのに必要であれば職を辞しても良いとは思っていた。
ただし、勝手に辞職すると内閣が崩壊するという問題があるだけに時流の読み違いだけは気をつけないといけない。それが気掛かりな荒木であった。
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