漂流するバルティック艦隊
皇紀2594年 11月16日 アメリカ合衆国 ニューヨーク
モンゴルに舞台を移した北満事変の継続戦闘とは別の意味でソヴィエト連邦は厄介ごとを抱えている。航空優勢の確保でモンゴル方面における攻勢転換の成功したヨシフ・スターリンではあったが、大西洋方面ではバルティック艦隊が一騒動を起こしていた。
元々補修整備も後回しにされ続けていたバルティック艦隊の戦艦群は大西洋横断というそれによって限界に迫っていたのだ。長期航海をすればそれだけ整備不良による弊害が大きく出てくる。それは日露戦争によるバルティック艦隊の大遠征においても発生していた。
それと同じことが大西洋横断中に発生していたのだ。
まずは船底の付着物が思っていたよりも酷く、航海速度の低下といった形で目に見える影響を与えていた。次に艦内秩序の崩壊だった。元々艦隊における秩序水準はそれほど高いものではなかったが、航海日数が増えるにつれてモラルの低下が顕著になり、窃盗や暴力が目に見えて増えてきたのだ。
大西洋の真ん中を過ぎた頃には下士官と水兵が乱闘を起こすという形で爆発、原因になった者を営倉送りにして対処したが、それも不満を蓄積させる結果にしかならなかった。
十分な食材を仕入れていたが、備品のチェックをする度に使っていないはずの食材が消え失せていたことが分かると自然と艦内食生活の質が低下していく。航海中の楽しみである食事が満足出来ないものになればそれもまた不満の種である。当然、夜中に食料庫への窃盗行為が加速し、更に食生活の質が低下していくという悪循環だった。
なんだかんだでやっとニューヨークへ着いたかと思えば、北満州から赤軍が叩き出されたという報道が待っていた。
「海軍の予算を横取りしている連中は何をしているんだ」
「予算泥棒ではなく、俺たちに予算を回せ」
荒んだ心の水兵たちのモラルはもうこれ以上下がりようがないところまで下がっていた。更に彼らに追い打ちを掛けるように合衆国政府から艦艇の出港禁止が命じられたのだ。
「貴艦隊の艦艇は酷く傷んでいる。このまま出港などされてはいつどこで海難事故に遭遇するか分からない。我々は厚意で海軍工廠の船渠を提供する。まずは満足いく補修整備を行うことを勧める」
赤軍海軍上層部の画策した通りに入渠出来ることになったが、そんなことは水兵や下士官などが知りようがない。艦隊上層部は予定通りであるからすぐにでも上陸した上でアメリカ海軍と交流という体裁で士官以上は海軍兵学校へ留学待遇で向かうことが発表されたが、下士官以下にとっては、住む場所すらない状態になったのだ。
そう、彼らの我慢の限界がそこで爆発したのだ。元々臨界点を実質的に突破していたのだが、下士官VS水兵という対立構図すら無視して結託しての反乱だった。
「我々は下船を拒否する」
「下船せよというのであれば、待遇について明確にせよ」
「帰国させるのであれば、その保証をせよ」
この事態に困ったのは艦隊上層部もそうであったが、実はアメリカ海軍でもあった。
ルーズベルト政権になってから海軍艦艇の近代化改装が急ピッチで進められていたのだ。そしてガングート級を入渠させることになっている船渠もコロラド級の改装のために空けたものであったのだ。しかし、入港したバルティック艦隊が文字通り漂流する幽霊船同然だったことから、領海内で沈んだりアメリカ近海で海難事故などに遭われたらホスト国として困るためにスケジュールをやりくりしたのだ。
純粋な厚意とは言えないが、それでも厚意で空けた船渠に入渠出来ないと言うことはちょっとした国際問題であり、また余所の家で親子喧嘩を始めたようなもので良い迷惑だった。
「お宅の問題にとやかく言うつもりはないのだが、入渠するなら早くして欲しい。でなければ、お宅の都合と言うことでそのまま退去して欲しい」
アメリカ海軍から非公式に艦隊首脳に申し入れがあったことで、流石にこれ以上問題を長引かせるわけにはいかないとアメリカ海軍を通じての傭船契約を結び、モラルの低下が酷くない者たちを本国へ送り返すことにしたのだ。反乱首謀者やそれに同調した水兵は装甲巡洋艦に収容して傭船と一緒に引き返させることにしたのだ。
流石にこの問題を艦隊首脳は本国に知らせることはしなかった。無論、アメリカ側も余計な面倒を抱えたくないので素知らぬふりをしてバルティック艦隊に丸投げしたのである。
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