モンゴル空中戦
皇紀2594年 11月16日 ソヴィエト連邦 モスクワ
ヨシフ・スターリンは自分の失策が為に極東戦線を悪い意味で固定化してしまった。だが、彼にはそれ以上の策はなかったし、仮に赤軍上層部が望んだような策をとればスターリン自身が不安視した事態が起きても不思議はなかった。
赤軍上層部にとっては自身が粛清の対象であると自覚があるだけにそれを食い止めてくれるのであればクーデター決起を支持する姿勢をすら厭わなかったが、あくまでもそれは成功する可能性がある人物であればという条件付きであった。
故に実質傍観することにしたのだ。彼らは赤い皇帝が直接作戦指揮を執っていることで口を出すのを控えたのも、下手に口を出して粛清になる時期を早めたくない一心であったし、責任をとって詰め腹を切らされるのも御免蒙るという心情故だった。
流石のスターリンも報告だけは信じているかは別として目を通すことで極東戦域の情勢を理解し始めていたようだ。結果から言えば、死守命令の乱発は一定の効果を発揮していたのだ。
積極攻勢に出ることは出来ないが、現有戦力であれば拠点防衛を行う程度は十分だった。消耗の激しかった第1極東正面軍、第2極東正面軍を再編しモンゴリヤ正面軍として張学良軍閥への手当とした。これによって制空権は兎も角、陸上における戦力不足は解消、一部戦線では押し返すことが出来たのだ。
だが、問題はP-26であった。アメリカ製の単葉全金属製単発戦闘機が張軍閥に配備されていたことでアメリカとの関係を考え直さないといけないかとスターリンは考えたが、すぐに考え直したのである。
「飛行機などカネを出せば売ってくれるだろう。だが、それとて支那人にカネがあるうちだ」
実際にI-16の配備によって航空優勢は回復しつつある。制空権さえ得てしまえばTB-3の数を揃えて空襲によって頭を押さえつけることが出来る。
TB-3が撃ち落とされたのは敵に戦闘機がないという前提で出掛けていったことで発生したものであった。しかし、今は逆に敵戦闘機P-26は速度性能の違いからI-16の反復攻撃を受けて撃ち落とされていった。最高速度150km/hの違いは空中戦で大きなアドバンテージとなったのである。I-16は待ち伏せされても加速して逃げ、追撃を諦めたP-26を反転して逆に追撃する形で次々と撃ち落としたのだ。
張軍閥には天津港を経由して密輸されたP-26が予備機や部品状態を合わせて15機分を保有していた。実際の配備は正規12機+予備1機の13機。
最初の出撃では、18機出撃してきたTB-3を5機も血祭りに上げたことで張軍閥は沸いていた。張軍閥は9機出撃で損害なしであった。これに気を良くして再度空襲に来た12機のTB-3もまた損害なしで4機撃墜したことで内蒙古から外蒙古南部は張軍閥の制空権が確保されたのである。
次の空襲ではI-15が6機護衛で来ていたが、練度の違いと若干優速であったことからTB-3を1機、I-15を2機撃墜する戦果を上げたが、初めての喪失を出した。P-26が2機撃墜されたのである。
この時点ではまだI-15がソ連赤軍にも総計で9機しかなく、そのうちの2機を失っていたこともあり、7:11で優位性は張軍閥にあったのだ。しかし、にらみ合いをしているだけのヤクーツク正面軍からI-16が引き抜かれ、ウランバートルへ移駐してくると情勢は変わったのだ。
I-15:7機、I-16:9機となり、戦力比は16:11と逆転したのだ。それからは一方的に狩られる側になったのだ。
待ち伏せによって数の不利を克服しようとしたが、I-16の加速力によって突き放され、バラバラに追いかけてているところをI-15に襲われ、加速して逃げようとしたところをI-16に襲われるという形でなすすべもなく撃ち落とされたのだ。この時の空中戦の結果、I-15:4機、I-16:8機、P-26:6機と戦力比は2:1になった。
仕上げとばかりにTB-3を囮に使い張軍閥のP-26を誘き出し、待ち伏せていたI-16によって徹底的に追いかけ回し、この日の空中戦では遂にP-26は稼働2機にまで落ち込んでしまったのだ。無論、ソ連側の損害はなし。
「邪魔する蚊蜻蛉が消え失せれば数の勝負だ」
北満事変が始まって以来、初めてスターリンに余裕の表情が見えた瞬間であった。
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