赤軍大混乱
皇紀2594年 11月6日 ソヴィエト連邦 モスクワ
クレムリンの主は今日も大絶賛不機嫌にて側近たちが震え上がっているのであった。
10日ほど前にゲオルギー・ジューコフが横領、職務怠慢、軍指導能力の不足の罪で極東軍管区総司令官の任から更迭されそのまま投獄されたことが原因である。投獄した当の本人である赤い皇帝は自身のミスであるにもかかわらず極東軍管区の怠慢と断じて死守命令を乱発して作戦に介入するという暴挙に出ていたのだ。
「何故、アルグン川から押し返さない! ハルハ河を越えて大興安嶺に迫らないか!」
「同志たちは一刻も早くあの怠け者たちに喝を入れるのだ」
「母なるロシアの大地に帝国主義者を踏み入れさせるな! 愛国者の血で守り抜くのだ!」
言っていることは無茶苦茶である。誰もが思うところは一つであるが、言い出せない。
「同志書記長、モスクワ周辺やウクライナに展開している軍を投入しましょう」
これを言えたならば、ヨシフ・スターリンの言葉の通りに達成出来たかも知れない。だが、現実にはそれらを極東に送ることは見送られている。そう、スターリンの主観ではただでさえ軍閥化している極東軍管区に補充の兵を送れば、シベリア鉄道を逆走してモスクワに迫ってくるだろうからだ。
しかも、ウクライナに展開している軍を指揮しているのはジューコフ同様にスターリンの政敵であるミハイル・トハチェフスキーだ。
そんな奴が麾下の兵とともに極東なんかに行けば間違いなく羽柴秀吉の中国大返しの如く、シベリア鉄道沿いに反乱軍が襲いかかってくることはスターリンにとっては確実視された未来予想図の一つなのだ。
今はウクライナとの間により精強で装備に勝る親衛赤軍を配置しているからトハチェフスキーを恐れるほどではないが、ジューコフの残党とトハチェフスキーが結託などしたら目も当てられない事態になるのは火を見るより明らかであった。実際にそんなことはあり得ないと赤軍首脳は考えていたが、同志書記長閣下にはそんなものは信じられない。
赤い皇帝と赤いナポレオンの確執は今に始まったことではない。今から遡ること10年と少し前のソ連=ポーランド戦争に原因がある。
この時、トゥハチェフスキー軍の活躍によりポーランド軍を敗退に追いやり、ポーランド領内へ侵攻、首都ワルシャワの攻略を試みて失敗、最高指導者はこれを隣接の南西方面軍の協力がなかったためであるとして責任を南西方面軍軍事委員だったスターリン一人に押し付けたのである。一方的な逆恨みであると言えるが、これには最高指導者も一枚噛んでいるだけに事態の複雑さを物語っている。
これによってスターリンは革命軍事会議議員を罷免されるという屈辱を味わい、それ以来トハチェフスキーへ憎悪の感情を抱き続けているのだ。それだけでなく、トハチェフスキーがソ連赤軍最初の元帥の一人となったことにも我慢がならなかった。
そのため、元帥に昇進したトハチェフスキーを警戒する余りにその称号の割には過小な兵力で首都モスクワから遠ざけているのだが、ジューコフが管轄していた極東軍管区に移れば称号に相応しい戦力を有する軍閥となることがわかっていただけにスターリンは赤軍首脳がなんと言おうが認めなかったのだ。
その結果、ハイラル包囲戦、満州里殲滅戦という度重なる損失を立て直す余力が極東軍管区には残されていなかったのだ。その時点で極東軍管区にはヤクーツク正面軍に5個師団、ザバイカル正面軍に2個師団、第1極東正面軍に3個師団、第2極東正面軍に1個師団の合計11個師団が存在していたが元が各5個師団配備であったことから考えると都合9個師団相当の額面戦力を失っていた。損耗しきって戦力とならない師団を解体し、損耗の少ない師団へと併合したこともあるが、それでも5個師団相当の実損である。
特にザバイカル正面軍はハイラル包囲戦で捕虜2万人弱、満州里殲滅戦ではハイラル包囲蒙から脱出出来た部隊を追撃によって殲滅されたため、この二つの会戦で3個師団相当の戦力を失っている。 第2極東正面軍は内蒙古へ進出した折に九二式重爆の絨毯爆撃の餌食となり損耗したところを張学良軍閥の追撃で更に喪失のである。
戦力的にはヤクーツク正面軍からいくらか引き抜いて補充を行えば防衛戦を行う分には済むことではあるが、そうは問屋が卸さない。ヤクーツク正面軍が受け持っていたのはチュミカン-ジャリンダ線の国境防衛である。正統ロシア帝国もAAR38を装備した正規軍を国境南側に配備していたことから戦力の抽出イコール国境突破という現実的問題がそこにあったのだ。
ジューコフが万が一に備えてTB-3をイルクーツクに配備して国境に近づいてきた際に兵站を絨毯爆撃して食い止めるという作戦を考えていたが、その虎の子のTB-3すら張軍閥を追い払うために投入し、損耗していたのである。張軍閥が使用していたのはP-26ピーシューターであった。
P-26によって内蒙古の制空権が張軍閥へ移ると、ソ連極東軍もI-15、次いでI-16を投入して対抗したのであるが、空中戦の成否は兎も角、虎の子のTB-3の多くは撃墜された後であり、有効な航空支援が望めなくなっていたのである。
まさにジューコフがいなくなって場当たり的に対応を行った結果の惨敗だった。
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