北満奪還
皇紀2594年 11月6日 支那情勢
ソヴィエト連邦労農赤軍の侵出は10月中旬以後は低調になり、威力偵察程度の小競り合いが起きる程度で満州各方面における戦闘は終息に向かっていた。
これにはモスクワからの物資供給がストップしたことが大きいが、何よりゲオルギー・ジューコフ配下の高級将校が次々と逮捕拘禁されたことによって指揮系統が壊滅したことが大きく影響している。
それというのもモスクワにおいてジューコフの指示によって不足する物資や要求よりも遙かに少ない物資供給を調達せんと動いていた部下たちが国家反逆罪で逮捕されたことを皮切りにジューコフ自身の忠誠心への疑念が深まったのである。
元々、シベリアにおいて軍閥と化しているジューコフ軍に対して赤い皇帝は苦々しく思っていた節があり、理由を付けて弱体化を狙っていたのである。それが故に適当な罪状で彼の軍閥を切り崩せる材料を探っていたところ物資横流しというそれが露見したことで好機到来とばかりに次々と逮捕していったのだ。
また、同様にモンゴル人民共和国の駐屯地への物資集積と武器密造工場というそれも露見したのだから赤い皇帝の疑いは確信に変わっていた。
「ジューコフを逮捕せよ」
10月23日に至り、偽証・自白などによってジューコフの罪状が固まったことで逮捕命令が出されイルクーツクの司令部においてジューコフは出頭命令という形で逮捕されたのであった。
逮捕された際にジューコフは特に抵抗を示すことはなかった。部下たちが逮捕され始めた時点で時間の問題であると悟っていたのだろう。おとなしく秘密警察に従いその日のうちに飛行機でモスクワへ移送された。
あくまでも現地軍が反乱を起こさないようにモスクワにおいて報告を受けたいという体裁でのものだった。代理司令官には現状維持を命じてのモスクワへの移送であった。
モスクワに召喚されたジューコフは赤い皇帝に接見すると身の潔白を訴えたが、赤い皇帝はそれを認めずに投獄するとその場で伝えたのである。その際、北満に侵攻したにも関わらず成果を上げずモンゴル人民共和国領内を空爆され、横領した物資を無駄に失ったことの責任も問われたのであった。
26日にジューコフが収監されたことが伝わるとイルクーツクの司令部は混乱状態に陥ったことで最前線部隊も動揺を見せたのである。
関東軍に属する第二方面軍はこれを好機と判断し、大興安嶺要塞から打って出てハイラルに籠もるザバイカル正面軍を圧迫、新編制された第四方面軍は後詰めと迂回挟撃をすべくノモンハン方面からハルハ河東岸を抑えるように侵出し連携してハイラルに迫ったのである。
31日にはハイラルは陥落し、11月2日には満州里が陥落し、ソ連が不法占領していた北満州を解放することに成功したのであった。
この事態において旧ジューコフ軍は代理司令官の下、懸命に防衛戦を行ったのだが、九四式軽戦車と九四式高機動車の軽快な機動戦闘はソ連軍の縦深陣地を迂回して連携を寸断したこと、機動砲の大量投入による火力支援によって抵抗陣地が文字通り制圧されたことで敗退を余儀なくされてしまったのである。
流石に国境線を越えての侵攻は控えた関東軍であったが、工兵連隊が展開して国境線に沿って地雷原を設置していき、また土木重機の大量投入で縦深塹壕陣地をあっという間に作り上げてしまったのであった。
尤も、関東軍はハイラルや満州里に設置した縦深陣地などを所詮は時間稼ぎの一時的なモノという認識で本命は変わらず大興安嶺要塞としていた。よって、第四方面軍の内、1個師団がハイラルと満州里に分散配備されているに過ぎなかったのである。
第四方面軍の主力はチチハルへ撤退して遊軍的な扱いで待機することとなったのである。
北満失陥というこの事態がモスクワに届くと赤い皇帝を仰天させ、死守命令を乱発することになったのだが、ジューコフがいなかった数日間の内に事態は悪化してしまった事実をカバーするのは容易ではなかったのである。
なぜなら内蒙古から張軍閥が北上してモンゴル人民共和国を圧迫していたからだ。
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