いざ大西洋へ!
皇紀2594年 10月25日 共和スペイン フェロル
ソヴィエト連邦バルティック艦隊はヨタヨタと航行しながらやっとスペイン領内にある大西洋に面した軍港フェロルに到達した。
道中、大英帝国海軍に執拗に追い回され共和スペインへの寄港を邪魔されたが、ビスケー湾内での嵐に遭遇し、艦隊がバラバラになったことを好機と捉え、各個独断専行での航行によってフェロル軍港へ集結することにしたのだ。これが功を奏して大英帝国海軍はバルティック艦隊を見失ったのである。
天候回復後、艦載機による索敵行動で発見するが単艦航行していることと既に追跡可能な距離ではなく追いつけても共和スペイン領海に入ることが明白であった。これによって大英帝国海軍の追跡は終了したのであるが、代わりに外交的な圧力が共和スペインを苦しめることとなったのだ。
大英帝国は寄港揺許さじという外交圧力を元々掛けていたが、寄港は確実になったことで艦艇譲渡許さじへと変化し、艦艇譲渡となった場合、即時経済制裁を明言してきたのである。
スペイン共和派はこれに反発するがジブラルタルを抑えるH部隊に空母3隻が配備されたタイミングと重なり、北の戦艦群、東・南の空母群と挟まれたことで実質的にジブラルタルの封鎖を持って経済制裁と同等の効果を発揮していることから振り上げた拳を引っ込めざるを得なくなったのである。
また、隣国ポルトガルへの海軍艦艇供与を検討するというダメ押しがロンドンから発せられ、リスボンにおいて予備交渉に入ったと発表が出るとバルティック艦隊を追い出す方向に動いたのであった。このことで腰砕けになったアサーニャ政権は閣内不一致を招き、退陣することになりニセート・アルカラ=サモーラが政権を引き継ぐことになった。
だが、急進派はより不満を抱きフランスと国境を接し、元々独立志向の強いカタルーニャを中心に軍閥化を強めていったのだ。これは共和国政府そのものから離脱を意味していることから後に大問題となるのであった。
さて、そんなこんなの共和スペインの内情などバルティック艦隊にとってはどうでも良かったのである。彼らにとっての最大関心事は燃料と新鮮な食料が手に入るかどうかであった。普段は絶対にしない遠征航海によって士気は低下傾向な上に共和スペインはさっさと出て行けと言わんばかりの態度であるからコンディションとしては最低であるのだ。こういった事情から艦隊司令部は良質な食料の手配と普段は口に出来ない食事を振る舞うことで艦隊全体の士気を高めることに腐心したのだ。
涙ぐましいほどの艦隊司令部のそれは効果を上げていた。食事の質の向上は士気とモラルの低下を
防ぎ艦内秩序の回復に寄与したのだ。また上陸許可や物資調達によってフェロルの町に相当なカネが落とされことで市中が特需景気に沸いたのであるが、反面、酔ったソ連兵による問題が頻発したことで地元警察に逮捕者がでるという不始末もあった。
だが、なんとか出港準備を整えることが出来たバルティック艦隊はこの日、フェロル軍港を出港し、一路ニューヨークを目指したのである。




