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この身は露と消えても……とある転生者たちの戦争準備《ノスタルジー》  作者: 有坂総一郎
皇紀2594年(1934年)

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ポリ塩化ビニルの実用化

皇紀2594年(1934年) 10月15日  


 日本窒素肥料がこの日、ポリ塩化ビニルの量産実用化に成功した。


 アメリカ合衆国のグッドリッチ社により28年から商品化された加工しやすい柔軟なポリ塩化ビニルが発売されたことで本格的な商用利用が始まったが、この世界においても日本窒素肥料が国内メーカーでは先行しての実用化を成し遂げたのである。


 史実では41年の実用化であったが、この世界において日本窒素肥料はアンモニア事業において史実以上に隆盛を極め、その発展はとどまるところを知らない。朝鮮半島への進出、内地九州地区への工場増設によってその生産力は明らかに史実を上回っている。これと合わせて有坂コンツェルン傘下の帝国窒素が硝酸、火薬、人工肥料の大量生産を行っていることもあり帝国陸軍における火力優勢ドクトリンを支えていたのである。


 さて、その日本窒素肥料の主力工場である水俣と延岡の各工場において増設された生産ラインにより、ポリ塩化ビニルの実用化が進められていたのだが、両工場において満足がいく製品を安定的に生産出来ることが可能になったのだが、これには有坂総一郎が裏で暗躍していた。


 ポリ塩化ビニル、いわゆる塩ビは今でこそありふれたものであるが、この当時、やっと産声を上げ始めた工業製品であった。しかし、この工業製品を実用化することを推し進めたのは理由があったのだ。この世界でも史実通り31年、34年は記録的大凶作に見舞われており、総一郎はこの後も恐らく同様に凶作が何度か発生すると考えていたからだ。


「知識として知っているのと現実の凶作は全く次元の異なる惨劇だ」


 総一郎は壊滅的な食糧難と食料品価格の高騰というそれを実体験したことで、転移前の現代のように輸入で賄える&自給率が低いから多少の不作でも札束でなんとかなるそれではないことを思い知らされたのである。


 しかし、幸いであったのは史実と異なり、国内経済が好調であり、また、満州を抑えたり列強諸国との関係が良好であったことから食料の買い付けを行うことで乗り切れていたことだ。尤も、代わりに他国の植民地が飢餓輸出を行ったことによって疲弊したのは言うまでもない。


 水耕栽培による工場生産野菜も総一郎は考えていたのであるが、残念ながらまだ時期尚早であり、これが実用化するのは30年代後半になってから判断されると方針を転換したのである。


「温室栽培を40年までの間に可能な限り普及させ、凶作の影響を最小限に抑えなければならない」


 危機感を抱いた総一郎はビニールハウスの実用化と普及を優先することに決め、グッドリッチ社からの顧問受け入れと多少割高ではあるが技術指導付のライセンス権を得て帝国窒素によって実用化を目指したのであるが、元々、帝国窒素は硝酸・火薬の量産を優先する生産体制であったため他の事業を行うに適した状態ではなかった。実験室や試験生産する分には問題ないが、量産するとなると話は違うため実用化一歩手前で足踏みすることになってしまったのだ。


 だが、一定の成果とその研究結果や蓄積した技術をライセンス権とともに日本窒素肥料へ譲渡して彼らに任せることで実用化と量産流通の道筋をつけ、帝国窒素は事業の集約を図り、より火薬生産能力を高めることに徹したのであった。


 帝国窒素から引き継いだポリ塩化ビニル事業は徳山にある出光興産徳山製油所で精製されたナフサを熱分解したエチレンを塩素と反応させ、それで出来た二塩化エチレンを熱分解し、塩ビモノマーを得てそれを重合することで作り出している。


 これによって得られた塩ビ樹脂を適切に加工することに手間取っていたのだが、可塑財の分量加減に成功したのだ。可塑財の分量を多くすれば軟質のビニールが得られ、これによってビニールシートを量産可能になったのである。また、可塑剤の加減で硬質のパイプを押し出し成形で作り出すことに成功したことから、水道管の鉄管・土管からの置き換えに利用出来る用になった。


 これらによって農業分野を初め、多くの業界へ普及させる目処が立ったのであるが、日本窒素肥料からのこの一報が総一郎の元へ届くと彼は誰も見ていないところでガッツポーズを決めたのである。


「これで不作凶作の影響は格段に減らせる。あとは小型ボイラーなどの普及だ。重油はどうせ余るほどあるんだから問題ない……まずは宮崎に試験農場を作って、徐々に広げていけば良いだろう……次は水耕栽培の実用化だ」


 ビニールハウスや塩ビ管の実用化が可能になったことで、人工肥料の量産、これによって食料増産の目処が立ったことに総一郎は安堵すると同時に農林省へ働きかけを行う段取りを練り始めた。

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