盧溝橋という名の黄泉比良坂
皇紀2594年 10月12日 極東情勢
欧州においてバルティック艦隊の動向が列強諸国をピリピリさせていたが、ここ極東においては情勢の変化は表面的にはそれほど見られない。
一部突破された大興安嶺要塞の絶対防衛線の再構築を関東軍は優先させ、同時に列車砲操車場、重砲陣地などの警備態勢を一新させることになった。内地の陸軍省や参謀本部も関東軍に要請に応える形で追加の機材を投入、鉄壁要塞の再築を急がせたのである。
関東憲兵隊は内地の憲兵隊からの増員を受け、満州中にゲリラ及び抗日勢力の徹底捜査網を作り上げることで大規模検挙をいくつか行ったのである。これによって満州の大掃除が行われたことで日本国籍保持者500余名、満州人1000余名、支那人・朝鮮人800余名は逮捕され、ジュネーヴ条約及び治安維持法違反の容疑で処理されたのである。
「思ったよりも広範囲に活動しておったとは……いくらかは誤認逮捕の可能性があるが……法の解釈に従えば誤差と言えようか……」
関東憲兵司令官東條英機中将は報告書に目を通しつつ感想を呟く。
東條は2週間程度の短い期間で成果を上げる必要性から多少の誤認逮捕や証拠不十分であってもそれを黙認したのである。陸軍中央や関東軍、そして満州に移住した邦人が望んだのは、「間違いのない捜査」ではなく、「疑わしい奴は検挙、潔白かどうかは後で分かれば良い」だった。
「疑わしきは罰せず」こそ被疑者の利益だが、スパイ、ゲリラ、テロリスト、赤化分子はこの限りではなく、法を最大限に解釈することで大掃除することを誰もが望んだのである。
実際、この方式で大量検挙したことで満鉄爆破計画や石油コンビナート爆破計画が露見し、各国の租界警察や憲兵とともに租界地区や緩衝地帯において捜査を行い共犯者や幇助者が芋づる式に検挙出来たことから各国からの称賛の声が大連の関東憲兵隊司令部には寄せられていたのだ。
また、九二式重爆を使って憲兵隊や警察への協力を呼びかけるビラを空中散布し、協力者にはその情報の質を問わず褒賞を与えていたのだ。無論些細なものではあったが、これによって情報提供は確実に多くなったのだ。だが、当然、虚偽申告なども相当数に上っていたが、それらの多くは味を占めてさらなる虚偽申告を行っていることを確認されると別件で適切に処理されていった。
陸軍中央や東條がいくらかの誤認逮捕があることを承知で検挙を続けていたのは表向きには人心の安定のためであったが、情報流出や破壊工作を防ぐためであった。それだけ大興安嶺要塞において火砲の破壊工作による喪失が帝国陸軍に深い心理的ダメージを与えていたのである。
だが、そんな東條も憲兵隊の仕事だけしているわけにはいかない。
彼には表の仕事以外にも裏の仕事があるからだ。
陸軍省・参謀本部において支那駐屯軍が北支那方面軍へ改組され方面軍へと昇格することが決定されたのだ。これによって内地から補充の兵力が送られ、戦力を充実させることとなったのである。
それそのものは現地部隊には歓迎されていたが、戦火の拡大を懸念するほかなかった。
「有坂の手紙には荒木陸相は不拡大方針だと来ていたが、これでは逆ではないか」
先輩格である梅津美治郎中将、岡村寧次少将がそれぞれ支那駐屯軍(北支那方面軍)司令官、関東軍総副参謀長であることから戦火の拡大を阻止すべく東條は彼らに対して工作を行っていたのだ。
梅津と岡村も現地情勢を考える上で東條に賛意を示し、積極的な攻勢に出るようなことは慎んでいた。尤も、梅津は元々慎重な性格であり、皇道派にも統制派にも一定の距離を置いていたそれはこの世界でも同様であったことから天津とその周辺の権益保護を名目に陸軍中央へ積極的な作戦行動は出来ないと通告していたのだ。尤も自前の戦力が不足しているからやりたくても出来ないという事情もあったが。
「支那人同士の揉め事に首を突っ込んだところで利益などない。我々は石油と鉱物資源を得ることが出来ればそれで十分なのだから支那の地など一片たりとも必要ない」
梅津は副官や司令部要員に日頃そう言って積極論を唱える将校を事前に封じていたこともあって支那駐屯軍においては梅津の意向がそのまま反映されていたのだ。
「戦力を追加で送ってくれることは結構なことだが、司令部も今のままで構わない。口やかましい連中、特に亜細亜主義者や大陸浪人と付き合いがあるような輩など送ってくるなよ」
梅津は改組編制の話が伝わるとすぐに陸軍中央へ返信をさせ、従来路線を継続することを明確にしていたのだ。これは関東軍においても積極論と持久論が拮抗していた岡村に援護射撃となった。
「支那駐屯軍、北支那方面軍は動きませぬ。我らも大興安嶺の守りを強化し、満州の保持のみに徹するべきです。仮に内蒙古が落ちようと、北京が露助や共匪に落ちようと、我々は一切手出しすべきではありません……ただし、天津などの権益を侵されるとなれば別です。それらは帝国の存亡に関わる……我らには兵が足りぬのです。それを機関銃や大砲で補っておるに過ぎないと忘れてはならぬのです」
積極論を唱えている関東軍総司令官武藤信義大将を引き留め、大興安嶺要塞の強化に努めたのは岡村の主張を総参謀長である西尾寿造中将が援護していたからだ。いくら総司令官がやりたいと言っても、総参謀長や総副参謀長がそれを否定するのであれば組織としてはGOサインを出せない。
そして史実よりも長生きしている武藤であったが、北満侵攻事件以来の激務で健康を害しており10月に入ってからは入院する事態になっていたのだ。それでもなお、積極論を唱えるのは自身が関東軍総司令官を務めている時期にその任地を侵害されたという屈辱からだった。だが、そんな彼であっても正面の敵であるソ連以外へはそれほど重視をしていなかった。
東條、梅津、岡村の三人が真に苦労していたのは陸軍省人事や参謀本部によって送られてきた事情に明るくない内地勤務だった将校であったのだ。
「張学良討つべし」
「徳王を支援して内蒙古を解放すべき」
「支那新秩序の構築こそ帝国の利益」
と現状認識がとても出来ているとは思えない明後日の方角を向いた主張を繰り返していたからだ。血気盛んな将校たちには上層部の様に現地情勢に明るい人間の言葉はイマイチ届いていなかったのだ。
「よいか、我が軍は盧溝橋を渡ることはない。ましてこちらから最初の一発を撃つことなど罷り成らぬ。盧溝橋を越えるのは三途の川を渡るのと同じことなのだ。言い換えよう。貴様らがやろうとしていることは黄泉比良坂を下った先にある黄泉國へ行くと言うことだ……黄泉軍や黄泉醜女を相手にするということだぞ?」
梅津、岡村の二人は師団長、旅団長、連隊長を呼び出したり、自分から出向いてはそう言って訓示を行っていた。それをしなければならないほど内地から追加で送られた将校たちが騒いでいたのだ。




