彷徨える迷惑
皇紀2594年 10月12日 世界情勢
バルティック艦隊の大西洋親善航海は大方の予想通り、10月3日にポーランド回廊のグディニアへ入港、ポーランド国民にその偉容を示した。経済相互援助会議の一角を担うポーランドは陸軍国でありまた独立から日が浅いこともあり海軍力はないも同然であることから旧式戦艦であるとはいえども12インチ砲3連装12門を有するガングート級戦艦に圧倒され頼もしく感じていたのである。
グディニアにおける補給と艦内公開が終わった6日にはタンカーを帯同させて出港、ドイツ艦隊がつかず離れずの監視の下エーレズンド海峡を通過、スカゲラック海峡にさしかかるとイギリス本国艦隊の巡洋艦群が同様に追跡したのである。
9日に至り、スカゲラック海峡を抜けると速力を上げ一路北海を南下し始めたことが確認されるとサウサンプトンを出港していたグローリアス級空母3隻などのジブラルタル増援艦隊がスペイン北岸のビスケー湾において演習を行いつつ領空侵犯ギリギリの示威行動を始めたのである。
これは共和スペインへの明らかな圧力であり、補給寄港以上の姿勢を見せたならば攻撃を行う用意があることを示していたのだ。
9月末の時点で大英帝国政府はジブラルタルへの派兵を明言していた為、共和スペイン・アサーニャ政権は自重することを政府及び軍部へ示していたのだが、人民戦線などは親ソ姿勢を明確化して政情不安を引き起こしていたのだ。大英帝国政府はアサーニャ政権が与党的存在である人民戦線を完全に掌握していないことを把握していたため、まずは穏健派と急進派の分断を狙ったのである。
議会制民主主義を志向する穏健派はアサーニャ政権を支持して欧州諸国との協調を望み、バルティック艦隊の補給寄港だけ認め、用が済んだらさっさと出て行ってもらおうと考えていた。国内的にも国粋派・教会勢力・資本家と対立している中で余計な問題を背負いたくなかったのだ。
逆に急進派はコミンテルンの指示に従いソヴィエト連邦と同盟関係を結び、コメコンに加わって、フランスをも人民戦線によって真っ赤に染めようと考えていた。彼らは暴力革命、無政府主義の実現を志向しているため本質的には穏健派も敵と見なしている節が多々見受けられたのである。
これら呉越同舟な人民戦線両派は議会内外で多数派工作を行っていたが、ビスケー湾における演習といくつかの領空侵犯は大英帝国政府の狙い通りに人民戦線穏健派を腰砕けにするには十分な効果を発揮したのである。
「それ見たことか」
穏健派は急進派の強引な手法と現実を見ないそれにここぞとばかりに反撃を始めたのだ。同時に共和派軍人でも名の知れていたホセ・カスティージョが史実同様であるが、少し時期は早いがファランジストによって暗殺されると、翌日にはカスティージョの仇とばかりに彼の同志である国家憲兵たちが報復として保守派のホセ・カルボ・ソテーロを暗殺したのである。イデオロギーの違いがあるとは言えども、警察機構の一員が率先してテロ行為に走ったことは衝撃を与えたが、これによって急進派は武力による威嚇で発言力を増すことになったのである。
そうこうしているうちに12日にはドーヴァー海峡を抜けてブルターニュ沖にまでバルティック艦隊はその歩みを進めていた。
この時点でソ連政府は共和スペインがどういう態度をとるのか、それほど気に掛けていた兆候はみられなかった。ソ連側は政府基準で言えばソ連海軍の健在ぶりを親善航海で示したいのであって、譲渡など考えてもいなかったし、海軍規準で言えばニューヨークに無事に到着してドック入り出来ればそれで良かったのだ。
そういう意味では、欧州各国が勝手に自分たちの思い込みであれこれ動いているだけなのである。
だが、政治とはあらゆることを想定するものであり、スペインが真っ赤に染まればフランスが落ちるのは火を見るより明らかであったし、共和スペインが戦艦を増やせばジブラルタルが危なくなるのも道理であった。それが故に遠く極東の小競り合いよりも目の前の小火に注力しないといけなかったのだ。




