ガングート級戦艦
皇紀2594年 9月25日 ソ連情勢
ガングート級戦艦とはソ連海軍に唯一引き継がれた帝政ロシア海軍の戦艦である。この世界では4隻すべてが革命後の混乱を生き残り、バルト海に2隻、黒海に2隻ずつ配備されている。
革命後のソヴィエト連邦では海軍力の整備は優先されず、専ら沿岸砲台代用として軍港に係留されたまま活動することなく補修整備すら事欠く日常を送っていた。
だが、時流は軍縮条約の形骸化を推し進め、ソ連海軍の地位向上に繋がることとなったのだ。特に超巡洋艦と呼ばれるインコンパラブル級の登場はそのまま実質的な建艦競争へと各国を引き摺り込んでいった。
インコンパラブル級の次に登場したドイツの襲撃艦は明確にバルト海の王者として君臨、バルト海の制海権は完全にドイツの手に落ちたのである。これに焦ったのはクレムリンの主、赤い皇帝ことヨシフ・スターリンであった。
「母なるロシアの大地と等しくバルト海は我らにとって大切なものだ。それをドイツに好きにさせるわけにはいかない。東洋の猿にしてやられたせいで太平洋の出口を失った我々には海軍力の再建は急務である」
赤い皇帝の一言でソ連海軍関係者は奮い立った。
「今こそ我らの存在意義を示す好機」
「露日戦争の屈辱を雪ぐとき」
だが、赤い皇帝がいくらかけ声を上げようとも遺憾ともしがたい問題がそこには立ちはだかっている。
――ソ連海軍にはあらゆるノウハウが革命によって断絶している。
これは海軍関係者共通の公然の秘密だった。だが、それを素直に認めることも出来ない。いや、認めることが出来ても、それを報告すれば粛清の嵐が待っている。
「同志スターリン、同志の大義を達成せんが為に我らは粉骨砕身の気概を見せることを厭うことはありません、ですが、残念ながら、一大事業を行うためには国内で整備するだけでは足りません」
「我らの造船能力では同志の宿願である戦艦8隻のうち4隻しか実現する能力がないのです。これは造船ドックがそれだけしかないからです、しかし、ドックや船台が増えれば我らには実現する能力があるのです」
「ゆえに同志スターリン、あなたと志を同じくするルーズベルトを利用するのです。奴に恩を売ったように見せかけ、奴すら圧倒する海軍力を整備するために各種機械を導入し、海軍の総合戦力を整えるのです」
重鎮提督、工廠長たちは一丸となって赤い皇帝の野望実現という名目で造船能力の獲得を手を替え品を替え言葉巧みに要求したのである。
当時、スターリンの政敵であるソ連邦英雄や赤いナポレオンを牽制する意味でも陸軍勢力を削ぐ必要があったのだ。同時に赤軍粛清は陸軍中心に行われ始めていた。こういった事情から海軍を自らの与党に組み込むべくスターリンは海軍の要求を支持したのであった。
親ソ的な態度を示しているトルコによって黒海の入り口が塞がれていることを幸いにソ連海軍はガングート級戦艦の後期2隻であるポルタワとセバストーポリを30年頃から改装することで、近代化戦艦を手に入れることを目指したのである。
しかし、その逆にバルト海に配備されているガングートとペトロパブロフスクは改装が遅れていた。これは単純に予算の問題でもあったが、ドイツが襲撃艦を配備したことで有力な戦力であるこの2隻を就役させ続ける必要があったからだった。
だが、ポルタワとセバストーポリが改装終了し再就役したことで情勢が変わったのである。
「黒海への道はトルコが塞いでおる。トルコが敵に回らぬ限りは黒海に敵はおらぬ。戦艦を遊ばせておくのは勿体ない。バルト海へ回航せよ」
この判断は極めて妥当なものであった。これによって黒海が空白になろうとも、セバストポリ軍港は30.5cm連装要塞砲が黒海を睨んでいることで防備は万全と言えたのだ。バルト海へ回航された後はガングートとペトロパブロフスクと交代しレニングラード港外のクロンシュタット軍港においてその偉容を示していれば良いのである。
本来、ガングートとペトロパブロフスクはレニングラードのドックに入渠して改装する手はずであったが、そこに赤い皇帝の横槍が入ったのである。
「レニングラード・オルジョニキーゼ工廠は新戦艦を建造するために空けておく必要がある」
海軍関係者にとって嬉しい悲鳴であったが、現場にとってはよい迷惑であった。工事計画の狂ったガングートとペトロパブロフスクであるが、実はこの頃には大規模な補修整備を必要としていたのである。
だが、ドック施設を使えないとなるとどこかでしなければならないが、一番施設が整っているオルジョニキーゼ工廠での工事を行えないとなると両艦の行き場は実質なくなる。セバストポリ軍港やムィコラーイウにおいてマキシム・ゴーリキー級巡洋艦が建造され始めていたことで黒海への回航も出来なくなっていたのだ。
「おい、親善航海という名目でアメリカまで行ってそこでオーバーホールの必要有りと言うことでそのまま入渠改装させるってのはどうだ?」
悪魔的発想である。
自前でどうにもならないなら、同じく世界から孤立気味のアメリカに寄生することを考えついたのである。
「じゃあ、アメリカまでの航海をなんとか誤魔化せる程度までは整備しておくか」
バルティック艦隊司令部における謀議はそのまま決定事項となり、スターリンの元へ上がってきた。
「ほぅ、アメリカへの親善航海か……よいではないか。我らが良い友人であるとアメリカ人どもに思わせるのも大事だからな……だが、ニューヨークから先の航海予定がないではないか」
スターリンの質問は尤もである。
「はっ同志、ここから先はいくつかの都市に寄港して親善を図るという予定ではありますが、なにぶんアメリカ政府やアメリカ海軍などの都合もありますので……」
「そういうことなら仕方あるまい……モロトフに話は付けておく。同志らは滞りなくその計画を進めるが良いだろう」
こうしてバルティック艦隊がレニングラード湾を後にすることになったのである。




