不気味な航海
皇紀2594年 9月25日 帝都東京 市ヶ谷 有坂邸
イタリア東洋艦隊の到着によって海上戦力の充実は地域によるパワーバランスを確実に変えていた。
同じく北支と仏領インドシナに権益を有するフランスも些か旧式化否めないとは言えども有力な戦力であるノルマンディー級戦艦を本国海域から仏印カムラン湾へ展開させることを表明していたのだ。
無論、表明したとはいえどもすぐに展開出来るわけではなく、カムラン湾と近いシンガポールを拠点とする大英帝国東洋艦隊を刺激しない程度の艦隊派遣となるとその戦力を慎重に選定しなければならない。対岸のフィリピン・スービック軍港に展開するアメリカアジア艦隊という存在にも配慮しないといけないのだ。
仏印程度の防衛や警備だけであれば主戦力は陸軍兵力になる。だが、かといって、艦隊の存在感は陸軍歩兵10万規模にも勝るモノがある。それだけに周辺列強を刺激しないで存在感を示すそれはフランスという国家には難物であった。
「フランスも面子のために出すなんて言わなければ苦労することはないのにな……」
有坂総一郎はデイリー・テレグラフの日本版に目を通しつつ嘆息する。傍らには空になった湯飲みがあり、それが時間の経過を物語っている。
「あら、いつもみたいに日本語版ではなくて原文のを読んでいるのね」
空になった湯飲みに気付いた有坂結奈はお茶を注ぎながら茶化す。彼女の言う通り、日頃は日本語版を読んでいる彼だが、今回だけは原文で読む必要があった。
「あぁ、日本人のブン屋が書き直すとこの手の記事は大抵碌な訳をしないからな。自分で辞書を引いて読む方が正しく理解出来る……まぁ、どうしても分からん時はアルテミスに聞くけれどね」
アルテミスという言葉に結奈の眉がピクッと動くがそれはそれ、いつものことだ。
「確かにあの泥棒猫に聞く方が正しそうですけれどね……嘘を教えていなければ」
「まぁ、そう言うなよ。しかし、フランスが出張ってくるとはなぁ……しかも地中海から戦艦を引っ張り出してまで……」
「けれど、イタリアだって出しているじゃない?」
「あぁ、あれは元々エチオピア侵攻を狙って進出させていたものをそのまま流用しただけだろうからなぁ。一から準備するのとは手間が違うさ……けれど、これで日英独仏伊が揃って戦艦・準戦艦を東アジアに展開することになる……また面倒なことになりそうだな」
ここまで言えば結奈も容易に想像が出来る。次にアクションを起こすのが誰なのか……。
「米帝様が棍棒ひっさげてフィリピンくんだりまでお出ましと?」
「まぁ、そうなるよな。なんせ、連中にとってラスト・フロンティアなんだからね。そこに欧州列強が揃って主力艦を並べて観艦式をやろうってんだから、自分も混ぜろと言うだろうさ」
総一郎の観艦式という表現に結奈は思わず笑ってしまった。
「観艦式ねぇ……大の大人が、自分のおもちゃを自慢しに集まっている……もしくは不良のたまり場ね、これ」
確かに結奈の言葉の通りである。各国ともに大真面目に権益保護を目的に動いているが、一歩引いた視点で見れば彼女の言う通りなのだ。
「確かにそうだね」
結奈の言葉に同意すると再び紙面に視線を戻す。総一郎の眉間のしわが更に深くなったのを結奈は見逃すことはなかった。そこに記されている単語は予想されるアメリカアジア艦隊の増強というそれよりも遙かに番狂わせになりそうなものであった。
――バルティック艦隊、一路ニューヨークへ
そこにはバルト海で逼塞していたソ連海軍の戦艦ガングート及びペトロパヴロフスクがレニングラードを出航しニューヨークへ向けて航海を始めたことが記されていた。アメリカ政府の国交樹立を祝い親善目的での招待というものであった。
「ねぇ、これ……まさかパナマ運河を越えて太平洋には来ないわよね?」




