名探偵?
皇紀2594年 9月20日 関東州 大連
港町大連は海からの潮風が町を吹き抜ける。山の手側にある関東憲兵隊司令部であっても時間によっては心地よい風を感じることがあるが、初秋の時期ではまだ暑さの方が勝っていた。
関東憲兵隊の司令官である東條英機中将は苛つきを露わにしていて朝から機嫌が余りよろしくない状態であった。
「当てが外れるとは……」
関東軍総副参謀長である岡村寧次少将が意図的にリークした情報を元にゲリラが金嶺寺において襲撃してきたのは予定通りだった。だが、ここにいくつかの誤算が生じていた。
「承徳からの偽装列車はポイント故障で現地へ到着出来ず、結局、装甲列車と輸送列車の兵で片付けたが……敵の数が余りに少ない……しかも捕らえた輩はまともな情報を得ておらぬ実質ただの野盗……」
ゲリラを一網打尽にしようと考えていた東條にとって今回の作戦は実質失敗に終わったことを意味していた。目立つ囮を用意して、しかも現金輸送列車という餌まで用意したのにこのザマだ。
そして届いた一通の私信。これが東條の機嫌を一番損ねていた。差し障りのない近況連絡程度のものしかなかったが、その一片の便箋には不穏な文字があった。
「ABCD包囲網……盧溝橋を越えるな……それと……なんだこれは? 管付の小豆袋?」
彼には聞き覚えのあるそれだった。
ABCD包囲網とは言うまでもなく、史実開戦前の大日本帝国の孤立状態を示すものだ。現時点での情勢は逆にアメリカ合衆国こそが孤立しているのだからソレではないと東條はすぐに理解する。
「我が帝国が包囲されているわけではない……では何が包囲されておるというのか」
東條は首を捻る。便箋を裏返しにしてみるが当然そこは真っ白でなにも書いていない。無駄に上質紙を使っていることだけが分かる。
「相変わらず資源の無駄遣いをしよる」
有坂コンツェルンが製紙業界に参入して以後、製紙量の増大につながり紙がより安価にそして上質紙の供給が増えたのだ。これは万年筆の普及と生産量に直結し、史実以上に万年筆メーカーが勃興し、40年に世界第2位の輸出国となった実績を既に上回っていた。特に欧州向けの輸出量の増大は並木製作所の様な蒔絵を施した製品の需要を喚起し、持つ者に東洋の神秘、日本文化を身近にさせ、親日的な意識を持たせる効果を発揮していたのだ。
東條が資源の無駄遣いと評したのは訳があった。陸軍省は経費削減の名目で低級紙(従来紙)を使い続けていたのだ。理由は簡単である。「燃やす、消す」からだ。あとは上質紙を製造出来ない企業の存続という公共事業的な意味合いもあった。
流石の陸軍省も価格の低下と上質紙の普及ということから徐々に保存文書を中心に導入を始めているがそれでも限られた予算を装備に回したいという欲求から限られた分量だけが使われている。それが故に東條にしてみれば”贅沢が過ぎる”のである。
「なにか示唆がないものか」
東條は思案しつつ改めて便箋の表を見る。そして管付の小豆袋の絵が目についた。
「管付の小豆袋……金ケ崎の退き口は両端を結んだ小豆袋であろうに……この管はなんなのだ?」
東條はこの意味を考えてみる。
「小豆袋そのものはABCD包囲網と関係しておるのは間違いないだろう……だが、管は一体? 金ケ崎の退き口であれば朽木谷を通っての逃げ道ということだろうが……流石にそうではないだろうが……」
東條は立ち上がって司令官室を歩き始める。パイプを咥え鹿撃ち帽でも加えていれば名探偵のそれであるが、残念ながら彼の頭上は帽子はなく磨き上げられたはげ頭があるだけだ。
室内を見渡すとそこには満州と北支が描かれた地図があった。
「待てよ?」
東條はそこで思い至る。手帳を取り出すとそこに簡単な地図を書き込む。そして各軍閥の関係と勢力図を追記する。
「ABCD包囲網とは張学良、毛沢東、蒋介石で間違いないな……となると管は奉天-天津の鉄道、小豆袋は北京北洋政府か……ふむ……なるほどな……であれば、盧溝橋を越えるなと言うのは……支那事変の泥沼に入り込むなと言うことか」
東條の推理はほぼ正解であった。だが、80点と言ったところだ。
「しかし、妙だな……」
東條の違和感こそ100点満点の最後のピースであったが、彼には届いていない情報があったことが完答への道を塞いでいたのである。




